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こんばんは。テレビで気持ち悪いものをやっています。
いいですか。過食は病気です。病気ですよ。
大事なことなので2回繰り返しました。

今日はぶつりがく徒のつどいに参加しました。
発表者も参加者もかなり熱心だったので参加してよかったと思いました。
とはいえ、かなり難しい内容で独りよがりになっていなかったかなと思います。
私も発表できるときは、もうすこし工夫したものを出させてもらおうかと思います。
本日はどうもありがとうございます。

さて題名が科学の未来ということですが、これは科学者としても意識は次世代からはどのように持つべきかという話です。
科学の枠組みについて書きますと、科学は主観性を廃し、仮想的な空間をおき、いかなる状況でもそれが成り立つことを前提としています。これは誰もがそうだと言えるもののはずです。しかし、ここに主観性を含めなければいけない自体が起こっています。
それは心理学のように、科学性だけでは説明できないものであり、またあるときはヒッグスのように人間の目では見ることのかなわないものであったりします。
それに大宇宙の神秘はいまだに解明できていません。
人間原理を持ち出すことは原則というよりタブーに近いほどですが、それほどまでいかなくとも、主観性を持ち出さなければならないところまで科学は発展していると思います。
そして、科学の社会的要請は無碍にできませんし、超ひも理論のように検証不可のものまで現われては、科学を発展させてきた枠組みでは限界が近いです。
そこで、考えるべきなのは今ある枠組みに留まるか、新しい枠組みを作り直すかです。
もちろん検証しなければなりませんが、超ひも理論はだれが検証できるでしょう?

これはこれから考えていけません。まだ、私もいい考えはありまえん。しかし、1つに固執することはそろそろやめるときかも。
そう考えて明日から4月です。

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以前は高校一年生の前期のころを書いた。後期は何をするかというと教員によってさまざまだ。
私の場合、地学やら物理にちかいことだったので、始めに行ったことはプランクの放射に関してだった。
やはり、光学を扱うことが多いからだろう。とはいえ、これだけでなく研究する上で必要なスキルを身につけることになった。

その前にクラブが自然科学を研究するものであり、先輩のしたについていろいろと助手のようなことをしながら研究をどういうことをしようかというのを考えていた。
私のときは、先輩は蜂の研究だった。そのため大量のどろばちを捕まえる必要があるため、私たちはその罠を作ることをさせられた。これは苦痛ではなく、むしろ充実していたと言える。おかげで電動の糸鋸はそれなりに使えるようになった。
また、望遠鏡を使って、CCDカメラで天体を撮影したりしていた。後にこういう分野にすすむのだが、やはりこういう研究することを身につけるプログラムがあったおかげで今の私があるのだろう。
これこそまさしく教養である。

3月には海外旅行であった。豪勢なものだが、それなりに大変ではある。何しろ大概の人は言葉が通じないことに戸惑いを感じる。私のときはニュージーランドである。地震で話題となったクライストチャーチは想い出の地でもある。
マウントクックの麓に近いところで見た星空は圧巻であった。
都会がいろいろと失っているものは多い。それこそ、便利という潮流に流された人には想像もつかないことだが。

とにかくいろいろと経験した。講演会でもいろいろとあったし、それ以外の企画でもたのしかった。

次はいよいよ研究についてである。
今日久々にゴチを見た。
本当に久々なのだが、ゴチでは最後の注文をした後にその注文した料理の中からいくつか料理が運ばれてくる。そのとき料理の紹介と芸能人が食べながらいろいろと感想をいうのだが、米倉と溝端がゲストのやつの際に流れた曲名が知りたくていろいろと探しているがわからない。

たびたび聞いたことがある曲なのだがな。
明日もう一度映像を見て調べてみようかと考えているけどもな。
こういう聞いたことあるけどわからないというのはたびたびある。
なんとももどかしいものだ。
学校の離任式はやはりいけませんでした。
しかし、この場で担任の先生に一言お礼を言いたいと思います。

先生!ありがとうございます。またH高校に戻って来られることをお祈りしています。

別れはつらい。しかしながら、ちゃんと折り合いをつけて別れるということはしなければならない。
それがうまくできない現代人はやはり、仮初めのつながりでも執着してしまうのだろう。
上手に相手と別れるということはやはり昔の方が慣れているというか、礼儀をもって行っていたのだろう。
それをやはり見習わなくては。
ここ数日更新をしていないのは怠惰ではなく、結構忙しいからです。とはいえ、明日から2日間はキツいですね。
どうにかやっていきたいと思いますので、しばしお待ちを。
川瀬巴水の話を書こうと思って忘れてました。
とはいってもなかなかに美術のセカイの話を書いても、何それという言葉が返ってくるので私自身の独りよがりなんかなと思いますが、それでもやはり芸術というものは素晴らしいものもあるので是非とも美術館にいってみて欲しいものです。

日本の絵で、注目されがちなのが雪舟の水墨画。狩野永徳の襖絵。葛飾北斎の版画。このあたりが日本人ならだれでもわかる美術ではないでしょうか?
ここ最近の高校でも、日本史はけっこう選択されなくて、地理やら世界史、倫理、現代社会などを好んでやられるそうです。そうなると、やはり日本の芸術はぱっとしないものがあるのではないかと。某大阪市長が文楽に対して、あれほどの言葉を投げかけたのも、ある意味ではわかりますが、これは日本人の日本離れといっても差し支えないかと思います。

ただでさえ、今の人は本を読みません。だから、森鴎外の有名な作品は何と訊いても、アンデルセンの作品を訳した『即興詩人』だったり『阿部一族』というこたえはなく、せいぜい教科書で載っている『舞姫』が関の山でしょう。
ここで悲観はしていませんが、グローバルが叫ばれる世の中において、日本人はただ只管に英語をやることばかりに邁進して、自国の文化を忘れているのでしょう。英語=グローバル化という模式図は嫌いですが、外国人と話をするときでも、相手は自国の文化を大切にしています。そして、これこそが教養にもつながると私は思います。
英語が話せても、自国のアピールができない。ケネディ大統領が上杉鷹山の名前を出して、日本の記者がぽかーんとした状況こそ、もっとも恥ずべきものだと考えます。

そういう意味でも、文化というものを再考するべきではないのでしょうか。
ということで川瀬巴水のような絵画を嗜むのもまた一興というものでしょう。
ところで大学を卒業する先輩に、川瀬の絵を見せたらこう返事しました。
「へぇ。版画で、雪を表現できるんだ」
このときばかりは唖然としました。雪でなくとも、雨の表現は江戸時代の版画でもよく描かれているはずなのに、そんなことすらも興味がない。
そういえばそうで、今どきは漫画やらアニメやらゲームやら娯楽がかなり多いです。子どものうちから外で遊ぶこともなく、内でこういうことしていればそうなるでしょう。
湯川先生の時代とくらべてやはり教養というものが欠落しているのはなんとも情けないものです。

川瀬巴水の絵はそれこそ青の使い方が素晴らしいと以前書きましたが、それ以外にも陰影がすばらしいです。波が岩にあたってくだける表現やら、暗い木々の間にこぼれる月の光。水面にうつる人影。すべてが繊細で、きめ細かく、写真で撮ったのようにリアルです。

そして海外では人気があるのに、日本では知られていない。これを知らないとケネディの一言でぽかーんとした記者みたいになってしまいます。くわばらくわばら。
無教養人は嫌ですな。
渡邊木版画美術画舗
昨日の続きです。
まず、入学する前に手渡されたのが、

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これを読んでこいとありました。懐かしいです。
この高校でまっさきに問われるのが、ディベート能力なのですが、その前に相手の意見を聞き、自分の意見を話するということを徹底的に磨きます。
始めはなれないですけど、男女関係なくいろいろな事柄について話しあうのを青少年の家で行います。
ここで、まあ友達づくりをするのですけど、私はけっこうはしゃいでいたのでこのあたりから変なやつと思われていたみたいです。

ここで話し合った話題は後に班で調べ物をし、英語でディベートをするという形をとります。英語と検索する能力をここで磨くわけです。それも、参考文献はどうしらべて、どのように引用するのかをみっちりします。
私の場合は、「幼い頃の幼児教育をすべきか」という話で紆余曲折ありながらなんとか発表することができました。

それ以外にも有名な方の講演会があり、私のときは山折哲雄先生、鷲田清一先生、秋山仁先生、中村圭子先生、平野啓一郎氏などが講演に来ていました。
そして、茂木健一郎氏が来たときに、私の変人ぷりが披露されたゆえに、学年で知らぬものはいないほどになっていました。
だから、まったくしらないクラスの人でも顔を覚えられているという始末でした。

懐かしい想い出です。明日も、続きです。いよいよ、この高校の教育の根本について書こうと思います。
今ある大学の改革が混迷をきわめている。しかしながら、教育とはなかなかに変わるものではない。なによりよりも主体となるのは生徒と先生という枠組みがどういうものであるのかが重要である。

私が某H高校に入ったのはずいぶん前だが、そのときの校長先生やら先生にはお世話になった。
この高校はおそらく高校教育で改革を行い、さらには成功を収めたところだろうと思う。
なんてことはない、些細なことに注意してきたおかげだ。そのささいなことが見えない、見えにくいからこそ教育は大変なものであるし、うまくいかない原因だと考えられる。

この高校のスローガンは「自分の知りたいと思うことをとことん追求する」ことにある。
つまりは、悪名高い「ゆとり」とはなんであるのかをしっかりと腰を据えて考えて、教師がすべきことは何たるのかを議論し尽くし、その結果、学生の知的好奇心を最大限に引き出すことにあると。
これは欲望だ。知識に対する飽くなき、貪欲ともとれる欲望だ。しかし悪い意味ではなく、これには現代の子どもが忘れてしまった主体性を帯びた欲望だ。

この欲望を果たしてどうのばしていったのか。自分が体験したことを書きつつ複数にわけて書きたいと思っている。

まず、この高校の入試だ。これからすでにどういった高校を目指しているのかがわかる。
国語、英語、数学と、ディベート型論文。
この国語は必ず現代文と古文で、しかもかなりの量を書かせる。英語は3問の長文を読ませるし、数学に至っては相当手強い。
ディベート型はそもそもテスト対策なんて無理なものだ。

しかしこういう試験が意図しているものこそ、大事なものである。

自分の考えをはっきりと述べる、まとめることができる。それは間違っててもいいし、正しくてもいい。とにかくあいてに説明することだ。
これが試験で問われている。
この難しい試験をクリアして入学してからの話だが、これは次回にまわすとしよう。
「やあ、リズベット」
 友人は軽く手を挙げながら応えた。私はぺこりとお辞儀をした。何より私はウブで、女性に話しかけられるということだけであがってしまう性質だったからだ。
「お嬢様から、お二人を部屋に案内した後に旦那様のところへ連れて行ってというお達しがあったのですが」
「ああ、わかった。じゃあ、とっとと部屋に荷物を置いて来よう。案内しておくれ」
 友人がそういうと、リズベットは体を翻し2人の前に立って、こちらですといいながら2階の客間へ案内してくれた。途中、窓から見える庭の全貌に私はびっくりしたが、友人は笑って夜になればもっと面白くなるよといって先に歩いて行ってしまった。

「こちらです」
 リズベットに通された部屋は青いバラをかたどった絨毯が敷き詰められており、2人で泊まるには十分な広さがあった。
「すごいね。自分のねぐらの汚さに辟易するぐらいだ」
「だろ。でも、お前の家が汚いというならば、俺の住む家は人が住めるようなところじゃなくなるぜ」
 2人でそう笑いながら、持ってきた荷物を適当なところに置いておいた。一応大事なものをトランクから取り出し、先に部屋から出た友人を追って、私も部屋の外に出た。ここまで案内してくれたリズベットさんはちゃんと待っていてくれてこういった。
「それでは、旦那様のところまで案内させていただきます」
「ああ、よろしく頼むよ」

2階から下りて、大きな広間を通り抜けた先にこの邸の主がいた。ここに通されるまで、まるでおのぼりさんのように興奮してた私を嗜めていた友人も流石に、この先に子爵がいるということで緊張しているのが伝わった。しかしながら、私は友人だといっていたのにどうして緊張しているのかはわからなかった。後にその理由がわかるのだが、まだそれについて書くべきではないので話を先に進めよう。
「旦那様、お二人が到着しました」
「おお。入りたまえ」
「失礼します」
 友人がそういいながらドアに手をかけて入った、私もそれに続いて中に入った。そこはまるで教会のように静かで、空気が痛かった。
「こんにちは」
 深く重みのある声がする方をみると、まだ40代ぐらいの若い男性が立っていた。きりりとした眉に、こざっぱりした服。そして、蓄えられた髭。どれを取ってもかなり若々しい印象を与える。
「ああ、こんにちはだ、アルバート」
 友人はそういって彼の元へ歩いていった。私はそれにならい、後ろについていった。視界の端に、何やら金色のものを見たような気がした。
養老先生の『毒にも薬にもなる話』にあったことで、型という話を考えてみる。
型とは、身体の動きである。例を挙げると、職人の技術は言葉で教えてもらったからといって学ぶことができないからこそ、何年も同じ動作を繰り返して体得するようなものでもある。
また、天皇家の行動は型に当てはまるだろう。
ここで、身体については鷲田先生の話を読んでいたらあるあるの話しかもしれないが、この型というものは言葉ではなかなかと伝わりにくい。
所作といってしまえば軽いし、かといってごたごたと言葉で表現してもそれは薄っぺらい。
だから、言葉で説明するよりも慣れろというしかないが、これを読んだ人であってもなかなかに伝わらないのではないかと考えている。

昔はかなり儀式を大事にする。歴史ものが好きな人はそれこそ武士の心に共感するだろう。しかし、私には大河ドラマには型は存在しないと考えるが…
この儀式と一口に言ってもわからない。なにしろ、今の世の中は、行為がなんらかの利益に結びつかなければ無益、役に立たないものと烙印を押されて道に打ち捨てられてしまうからである。
この型は、孔子のような儒学ではまだまだ浅い。むしろ老子の境地まで行かなければならないほどである。言葉で話しているうちではまだまだ道に入ったとは言い難い。

『天皇論』を論じている小林よしのり氏は、おもしろ半分で読むにはけっこう辛い。まあ、あそこまで思いを突き詰めるのもなかなか大変だと思うが、型を表現しているといってもいい天皇家を表現する小林よしのり氏は、自身は型にはまっていないことは興味深いと思う。まあ、現代人自体が型を忘れてしまっているのでどうしようもないとは思うのだが。

この言語というので思いついたのが、私の先輩である。あの人は言葉で通じ合えるというのを信じてやまなかったが、私はとうの昔にその考えを捨ててしまった。やはり、英語がなかなかに通じていなくても、その人を評価するのは第一印象であり、それこそ型がしっかりしていればこそのものだ。言葉でなければ通じない。なんとも難儀な世の中だ。できれば、言葉以上に所作で先輩らしさを出して欲しかった。

ますますこれからも、情報化社会は加速しているだろう。そのことを悪いとはいわないが、今の日本人はその社会に生きていけるほど精神が育っているのだろうか?つまりは、思考を止めることになっていないだろうか?
テレビという媒体があり、映像のしたには字幕がある。果てにはどんなささいなことでも情報として受け取れる。私自身ネットをさまようほどの気力はないので何ともいわないが、このネットワークをさまようことに慣れてしまった人は現実も仮想と見なしてしまうのではないだろうか?いや、もうその自覚はないのかもしれない。それを気づくのに、我々は遅かったのかもしれない。

私は何も古きに帰れとはいわない。とはいえ、身体をなくしてしまった精神はどう考えても健全ではないのはたしかである。そして、健全な肉体と精神が伴わなければ、いわゆる魂すらもゆらぎ人間として大事なものを失ってしまうのではないかと思う。それこそ、伊藤計劃の『ハーモニー』のごとく人間自体が終わってしまうのかもしれない。
だが、まだまだ現代の波に侵食されていないところはまだ身体を大事にしている。そして、私もまた身体の重要性は意識するようにしている。だから、言葉で表現するよりも、身体から理解することを真剣に考えなくてはいけない。いや、考えるよりもまえに所作として何度も繰り返し繰り返しやらなければならないのかもしれない。
とはいえ、現代の読み物ではその心は身につかない。ゆえに荘子、老子などを漢文のまま素読し、考えることを忘れないようにするしかない。

そういうことを型ということからつらつらと書いてみた。
書いたこと以上のことを言葉に表さず表現しなければならないことは大変だが、まあやっていくしかない。

毒にも薬にもなる話毒にも薬にもなる話
(1997/10)
養老 孟司

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川瀬巴水は大正のころに作品を残している。
司馬江漢を知っている人はいるだろう。高校の日本史では『不忍池』が有名だろう。
その司馬江漢よりも川瀬巴水の『不忍池』は優れていると考えている。
東京二十景の『不忍池の雨』という作品がまさしくそれである。
この絵のいいところは、精密な墨線だけでなく、巴水の作品において私がいいとおもう青の使い方が光っている。
池の青、空の灰色がかった青。卓越した色の使い方である。

川瀬巴水は旅好きでもあった。そのため日本全国を歩き回り、四季折々の風景を浮世絵というもので表現した人だ。
私は『日本風景集 松島双子島』という作品が好きだ。
静かな水面。雲の合間に見える満月。そして影。
どれをとっても素晴らしい出来。
葛飾北斎やらとは違い現代風にアレンジしたともいえる。
しかしながら、日本ではあまりもてはやされることはないらしい。
どうも今の日本人は、日本の文化をないがしろにしがちなのではないか。

鴨居玲のような絵も私は好きだ。
それ以外にはルドンやら、マルグリットなど数寄ものともいえるような作品が好きだ。
とはいえ、ダリのような奇抜さはあんまりだし、ピカソは残念なことにわからない。

印象派もなかなかだが、やはりおもろいものを求める気質だろうか?
この川瀬巴水の絵はこころをくすぐるものだな。
花粉症で悩んでいますが、どうにかしています。
記事を書く余裕がなかったのは昨日までですが、今日は久々の休日を謳歌していました。
さて、明日はこれについて書こうと思います。

川瀬巴水木版画集川瀬巴水木版画集
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本当にいそがしい。朝からずっと会計のお仕事。
パソコンの前でうちまくっている私。
…OTL
『屍鬼二十五話というインドの伝承を扱った小説を読みました。
これは、日本の伝奇『日本霊異記』に近いものを感じるものです。
しかしながら、バラモンやら王族がでるので、話の最後の道徳的な問いかけをしているという話です。
かなり面白いですね。はい。


屍鬼二十五話 (東洋文庫)屍鬼二十五話 (東洋文庫)
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はい。昨日は更新ができませんでした。というよりも、更新する気が全く…
いま、ものすごくイラっとするメールが来ましたが平常心、平常心。ふーー。

まあ、あるやつがものすごくいらないことをして、それで鬱々としていただけなのですがね。
懲りないですね。
そう、自分の失敗を懲りない。
それで、他の家族がはらわた煮えくりかえりまして、その収拾をしていたら自分までふらっと倒れてしまいました。

普段からあまりストレスにならないようにしていたのですが、やはりそうもいかないようですね。
ということで今日は復調していますが、まさかさっきのメールでこんなにもいらいらするとは…

はやく3月病を完治しろー
花粉症です。
くしゃみがすごいですね。
それ以上に黄砂もきてます。
とはいえ、外に出ないというのは駄目なのでどうしても外に出てしまうのですが、あまり症状が酷くないと思い込んでいるおかげでまだ大丈夫です。

しかし、まあ家のほうでごたごたしているので精神的なことでは大変なのですが…

まあぼちぼちいこか…
李白の詩
その中には松尾芭蕉の『奥の細道』の元ネタとなったものがあります。
というのをこの間大阪の東洋陶磁美術館で聴きました。

陶磁器とは不思議なものです。
白磁の何も描かれていない器に、荘厳な佇まいを感じるほどで、肌がざわつきました。
絵画とは違い、また一風変わった芸術。

そんな趣を感じさせてくれます。
まあ、漫画『へうげもの』でも茶器に関していろいろとありますが、やはり実物をみるのもいいですな。


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入学試験の手伝いに行ったときの話ですが、待機場所にはほうじ茶などがたくさんあります。
それでのどを潤すのでしょうかね?
それにしてもあれほどパックがあるとは思いませんでしたね。

とはいえそういう話があったので、ちょこっと書いてみた次第です。

別の話題ですが、『国境の白いトンネルを抜けると雪国であった』という出だしを書いたのは川端康成ですが、これは常識ですよね?
後輩でまったくしらない子がいて、愕然としました。
ノーベル文学賞やで…

ということでやはり読書離れが酷いことが頷けますね。
私も二葉亭四迷の『浮雲』
坪内逍遥の『小説神髄』
幸田露伴『金色夜叉』
ここらへんは全く読んでいませんが、『大菩薩峠』の中里介山 『蒲団』の田山花袋、『吾輩は猫である』の夏目漱石、『即興詩人』の森鴎外などはいくつか読んでいます。
日本人として大事なこととはこういう昔のことを知るではないでしょうか?
故きを温ねて新しきを知るとも言います。
それ以外でも知っておくべきなのは、
『小僧の神様』志賀直哉
『蟹工船』小林多喜二
『潮騒』三島由紀夫
『河童』『侏儒の言葉』芥川龍之介
『斜陽』太宰治
『友情』武者小路実篤
『カインの末裔』有島武郎
『銀河鉄道の夜』宮澤賢治
『春琴抄』谷崎潤一郎
『夜叉ケ池』泉鏡花
『パノラマ島奇譚』江戸川乱歩
『破戒』島崎藤村
『病牀六尺』正岡子規
『宮本武蔵』吉川英治
『八つ墓村』『黒猫邸殺人事件』横溝正史
『沈黙』遠藤周作
『白痴』坂口安吾
『野火』大岡昇平
『飼育』大江健三郎
『敦煌』『しろばんば』井上靖
『黒い雨』井伏鱒二
『道頓堀川』宮本輝
『ふんとブン』井上ひさし
『きまぐれロボット』星新一
『パプリカ』『時をかける少女』筒井康隆
『大統領のクリスマスツリー』鷺沢萠
『決壊』平野啓一郎
『西の魔女が死んだ』梨木香歩
ぐらいじゃないかなと思います(あくまで管理人の私見です)。

他には海外の文学も知っておくべきですがね…(苦笑)。

数字とは曖昧なもんや。
例えば円周率。
3.14の4はほとんど意味がない。
江戸時代なら3.16であったりする。

同じくテレビに出ている数字も案外でたらめや。
だからテレビでやたらと数字を示してくる場合があったら、まず疑うという姿勢をもたなあかんねん。

今日は久々にこてこての大阪弁でっせ。
ほな、ばいちゃ。
虫がはい出してくる時期ですね。
ここ最近読んでるのが心理学。それも臨床心理。

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もうずいぶんと古い本だけど、これは十分現代でも通用するだろう。
特に気になるのが、家族との関係だろう。
核家族化が進行し、消費が増える現代。
ものがたくさんあり、何一つ不自由がない。
しかしながら、うつである人が年々増加している。
果たしてどうしてなんだろうか?
私は、それこそ家族とは名ばかりになりつつあるものだと思う。つまりは家族での教育がしっかりと行われていないことに由来するのではないか?
家族の教育とは、食事であり、作法であり、道徳でもある。
家庭の味ではなく、もうすでにできている既製品ばかりを食べることで舌がおかしくなっているのではないだろうか?
人間の感覚自体が、集中的に使われることによって、人間らしさが失われているのではないだろうか?
それ以外に、日本の西洋かぶれは果たしていい方向に持っているのだろうか?
むしろ、西洋の方が日本のような文化に着目しつつある。なぜなら、彼らはキリスト教を基軸に物事を考えることに限界を感じつつあるからだ。
科学の世界でもそうだが、ここいらで見直さなければならない時期にある。
そういうことを訥々と考える。

今は、母親の『しっかりとしたものを食べさせれば、子どもは不良にならない』という言葉がよくよくわかるような気がする。
ここ数日読書という中毒症状のため、ぐうたら生活をするわけにいかないと、毎日30分散歩をする管理人です。
まあ、その読書もここ最近ではペースを落とし、勉学を励んでいます。
もうすでに私の今期の成績が発表されたのですが、13科目中最高評価が9つという驚異のスコアをたたき出して本人が一番驚いているという状況です。
とはいえ、後期の試験科目は簡単でもあり、また大学というものになれてきたからでしょう。

ということで、来期の科目で何をとろうかを思案している最中なのですが、悩んでいるのが物性物理です。
これ、まあ物質の内部を扱うものなのですが、銀河物理を志望している私はこっちよりも波動をしなければならいません。
やはり天文なので、光について全くの専門外というのは駄目でしょう。何より、観測をするのにX線やらを使うのならなおさらです。
そのためこの科目をとるのはいいのですが、できれば物性もやっておきたいなと考えた。しかしながら、転学科をしたので、数学科目を履修しないと駄目でもあるので、ちょうど時間がかぶったカリキュラムであるので困っています。
さて、どうしよう。
国の安泰を祈る行事で、奈良の東大寺二月堂で行われます。
別名修二会といい、3月14日まであるものです。
ようは、日頃の行いを懺悔し身を清めるためにあります。

まあ、こういうことも日本人が忘れてしまった大事なことではないでしょうか。
伝統行事にはそれなりに意味があります。
やみくもに古いものが駄目という考えは駄目で、新しいものを取り入れつつも古いものを守る。
これこそが文化ではないでしょうか。
とはいえ、私は文化の破壊者には共感できなく、ただ保存するのも駄目というなら何をすればいいのでしょうか。

いろいろな神事は決められた人しかできないという決まりをやめてみるのはどうでしょう。
それこそ、まったくやったことがない人にも参加できるような形が面白いかもしれない。
あくまで提案であるが。

そういへば、祇園も決められた人がなるんだっけ。あれも、その慣習を変えてみるのはどうだろう?
不謹慎かな。でも、応仁の乱以後も町人がなんとかして祇園祭を立て直した経緯があるから、どうにかなるとおもうけどな。

そう思う。今日この頃です。

プロフィール

水妖の音楽

Author:水妖の音楽
京都大好き大学生。
2009年 天文学会参加
2013年 サマーチャレンジ  
2015年 夏の学校
現在天文学を勉強中の大学院生
主にあわぎゃらくしーをやっていますが、銀河とつけばなんでも面白がります。
思想の根本は荘子であるため誰かしらに与することはしません。
身体論、哲学の類いの話も好きです。
趣味は読書とクラシックと絵画をみること山登り。
籘真千歳先生のファンです。
SFが特に好きです。森見登美彦さんも好きでサイン本を持つほど。ライトノベルは半分の月がのぼる空。ホラーなら玩具修理者。
クラシックはアリシア・デ・ラローチャやバーンスタイン、佐渡裕、カツァリス等が好み。
絵はマグリットやら、ルドン、川瀬巴水、ドミニク・アングル

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