FC2ブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
科学とは万能ではない。
これは、今の人が忘れがちな物事である。
科学はそれこそ、死物を扱う。それこそ現実に適用するよりも先にモデルを考える。
一方で観測から得られたことから経験的に導きだす場合もある。
どちらにせよ、それが完全だという認識は誤りだ。
繰り返し言うが、科学は万能ではない。

一方で、科学は生物を用いることもある。
最近の研究傾向としては、生命とは何かを追求するためにしている人もいる。
それは死物ではないが、やはり科学者としての目線は一般とは違う。
どう違うのかと説明するのはむつかしい。洞察と言えば聞こえはいいが、そんな陳腐なものではない。

さらに、科学者は今や自分のために研究するということだけにはなってはいない。
それこそ、社会が求めることに準拠しなければならなくなっている。
昔みたいにパトロンがいて、それでいて自由にできるわけではない。

池内了先生の『科学の限界』のある一節を引用する。
「人間ばかりではなく、ゾウリムシだって、チョウだって、ライオンだって、他の諸々の生物すべてが個性を持ち、異なった反応をし、異なった振る舞いをしているはずなのである。実験動物として使われているマウスやラットも、個にそれぞれ微妙な違いがあるのだが、私たちはそれを捨象して一般的反応を導きだしているに過ぎない。それをさらに人間にまで拡大して適用する。果たして、それがどこまで通用するのか不明なのだが、同じ科学の対象である生物という意味で普遍性の根拠とするのだ。しかし、その差異を弁えておかないと大きな間違いをするという可能性がある。特殊を一般化してわかった気になってしまうからだ」(第2章 人間が生み出す科学の限界より P.043)
これから説明することは、科学はあくまでも平均を(ただし、偏差が小さいことが必要になるが)抜き出して考えとして提示していることだ。
これをあまり理解を得ない。というのは、個々の特性を無視して一般化に走ってしまう傾向にあるからだ。
科学は確かに定量化された現象を求めるものでもあるが、個々の特性を無視するものではない。
個を大事にすることも科学の課題だろう。

そして、物理になってくると死物化されたものであるため、ますます現実との差異が感じられなくなる。
感覚が麻痺してくるのだ。
だから、ロスアラモスの実験で戦争の道具を作った人達は、落とされることを想定していなかった。
ドイツが作るよりも先にという思い、戦争をやめさせるつもりで作ったのかもしれないが、広島と長崎に大きな爪痕を残した。これはある意味では、アウシュビッツにも劣らない非道だったのかもしれない。(私自身、やりすぎだと思う)

科学倫理とは何かというのを考え直す時期にあると私は考えている。
もちろん、社会はそういう傾向にあるべきだと主張する人も多いが、いかんせん、スポンサーである企業の力が巨大化し過ぎている。

社会を通じて普遍的な科学とは何かをこれからも考えなくてはいけない。今回の普遍的な科学を話だが、それもかなり断片的だと思う。私自身まだまだまとめきれてないからだ。

科学の限界 (ちくま新書)科学の限界 (ちくま新書)
(2012/11/05)
池内 了

商品詳細を見る


スポンサーサイト
久々にこのタグを使ったな。
ということで、学力とは何かということを考えてみたいと思います。
大辞林には「学校などにおける系統的な教育を通じて獲得した能力」とあります。
学校でなくても、系統的な教育を通じて獲得したものならばいいのです。
昔の教育と言うものは何だったのかをちょっと考えてみましょう。
何かを学ぶということが大事になったのは中国でいうところの科挙でしょうか。
公務員試験のようなもので、今の学校というイメージがしやすいのはこういう感じでしょう。
日本だと、平安時代なら貴族が文章を書くことを習っていました。
つまりは、学力とは政のためでもあったと言えます。
一方で、ギリシャだとアルキメデスの法則を見つけたりアトムの存在を言ったり。
いわゆる科学の原型はそこからあります。
しかしながら、昔は学力というものをさほど重要視していません。(一般人が)
それは、やはり趣味やら政という意味が強く、生きていくことには必要でないからでしょう。(何しろ、働かないと食べることもままならない)
つまり、一般人が教育というものを受けるのはこの衣食住が満足しているときだけです。
現代は、この最低限が守られているからこそ教育は大事にされます。
ところが、この間紹介した堤未果さんの本では、最近のアメリカではそういう事情ではないそうです。
有名なのはデトロイトでしょうか。
それは今回は関係がないので省きます。

教育は國が豊かであることの象徴です。そして、教育をすることによって人間はさらなる知恵をつけて、生活しやすくするようにいろいろと変えていきました。
学力が大事だという所以は、この國が豊かになるということに起因します。
裏を返せば、学力が低いというのは国力が弱いということにも値するのです。
だから、政府も躍起になるわけです。

さて、それでは学力を身につけるということを考えてみましょう。
小学校から数学、国語、科学、社会、体育、音楽、図画工作というものを学びます。
それ以前に英才教育(幼児教育)をする人もいますが、あえて一般だけを取り上げます。
国語を除いて、それ以外ははっきり言って、生きるのには不要です。
なぜ学力として求められるのでしょうか?
それは、生きるのに必要がなくても、現代では生きていくことに意味を見出せる時間があるからです。
生活が豊かになるということは、それだけ生きるために必要なことから時間的に抜け出せるようになりました。
あまった時間をどうするのかと考えたとき、人生について考えることができるようになったのです。
人間は言語というものを手に入れ、そして思考というツールを手に入れました。
単に生きるだけなら、こういったものは不要です。ですが、それを与えられた、獲得しているわけです。
それを使うことを運命付けられているわけです。それじゃあ、ただ思考するだけでは駄目だから、数学やら、国語やらの学問にして、指針にしているわけです。
そういうことを極めることで自分の人生はこうだという風にすることができるようになったわけです。
そうでなくても、考えることによってさらに人間が生きやすい環境をつくっていけるわけです。
これが学力を身につける意義、理由だと私は考えています。

それじゃあ、ここ最近はどうなのか?
今日の日本経済新聞にもあるのですが、大概の学生は大学を目指します。例えば塾とかで受験テクニックを学んだりするわけです。
それで、今の大学生が大学に行くのかというと大概の答えは「周りが…」というものが返ってきます。
それでは真の意味での学力は身につかないのです。
それは、学力が生きる意味を考えるためという私の主張から考えると、いやいやするものではないからです。
昨今の教育に対する嘆きは、正直理由を適切に捉えきれていません。
教養は、自らの意志で身につけようとするものだからです。大学の先生ができることは1つです。(他の人でもそうですけど)
水飲み場に連れて行くことです。
水を飲ませることはできません。
それを自分の中でしっかり意識した人はあまりいないのではないのでしょうか?
だから、最近は学力だというわりに、受験勉強が過熱して学生が勉強しますけども、大学へはいることが目的になってしまい、肝心のその後が等閑になるのです。
大学の先生も苦労します。
そして、最近は競争主義とグローバリズムの波が押し寄せて、ますます教育に熱をあげていますが、それが裏目に出ています。それは、中間層が存在しないこと。
国力はすなわり中間層がどれくらいあるのかになります。そして、持続可能な社会を形成するには中間層が大勢いることが求められます。
すごいのはアメリカですが、その国内のほうは破綻が見えています。

日本はどういう風にあるべきなのでしょうか?
それは、やはり人間の最小単位である、他人との関わりを大事にすることです。
顔の見えない人と付き合うということが、平気で行われていますが、それをちゃんと変えていくことです。
顔の見えるというのが現代がなくしたものです。これは今からでも拾いにいくことはできます。
学力を考えると、ここまで来ました。
学力は人生を考えるためのツールで、それを深く掘り下げられるのかが強さに値します。
少なくとも私はそう考えています。
秋の京都も終わり、いよいよ師走。
コートをだし、カイロをつけて完全防寒体制をとるものの、やはり手先がかじかむのは仕方がない。
冬はカボチャを食べることをしたり、熱いお風呂にはいったりする
そうして、湯たんぽで蒲団の中まで温める。
まさに文明のおかげと、日本の知恵。
湯たんぽは画期的だったと思う。
最近ではお湯ではないものあったりする。


リラックマ 湯たんぽ(リラックマ) KF52301リラックマ 湯たんぽ(リラックマ) KF52301
()
san-x

商品詳細を見る



こういうものとか。まだ、私は出してないけども温度計を見ると室温が10度を下回ってきているみたいだし、導入するかな。
「エリジウム」は見ていないからなんとも言えないが、人は生きる尊厳やらを奪われつつある。
日本ではまだ表面化はしていないと思っていたが、去年のACTAのことといい、今日にも通ってしまった特定秘密保護法案らは、その第一歩と言ったところか。
昨今グローバル化が叫ばれているが、それが英語教育だけにとどまらないことは市井の人々は理解しているのだろうか?
海外がどういう状況にあるのかは、日本人は知らなさすぎる。
インドがGM種子に対して反対していること。
アメリカのSNAP制度。
アルゼンチンの悲劇。

日本でも報道されたリビア、カダフィ大佐の独裁政治。これが悪だとみなし、もはや戦争と呼べるようなことで鎮圧した。今は市民の生活は、カダフィ大佐が生きていた時より遥かに落ちている。治安の悪さはおそろしいほどだ。
あの事件の報道はこぞって日本の報道は、カダフィを悪の根源のように報道した印象がある。しかし、それは違ったことは分かっている。少なくとも、カダフィが殺されてから、安心した生活を市民は送れていない。

また、フセインがいたイラク。ここはもはや地獄だ。しかし、もう過去の遺物と見なされている。
記憶が風化している。

今、今年販売された堤未果さんの『(株)貧困大国アメリカ』を読んでいる。(岩波出版)
アメリカが直面した現実が突きつけられている。
火のないところには煙は立たない。それだから、これ以上の事実が隠されているのかもしれない。
そう思うと気がめいる。

(株)貧困大国アメリカ (岩波新書)(株)貧困大国アメリカ (岩波新書)
(2013/06/28)
堤 未果

商品詳細を見る



家畜化とは決して言いすぎではなく、1%ほどの富裕層のために残りがあくせくして働く。搾取される。
何のために働くのか?
また、先祖から大事にしてきたものを手放すことを強いられる。
公的機関は無駄だと民営化される。
競争主義が慢性化だ。

人間が積みあげていた、生きる意味、尊厳、そういうものはドブに捨てられる。
そういう病が今世界で流行っている。
知らないでは済まない。
知らなかったでは。

昨日スイッチインタビュー(Eテレ)にて内田樹と観世清和があった。
これを録画して先程見た。
まあ、武田鉄矢と堺雅人のくだりは不要であったが、(ファンの声は、ある意味では視野が狭くなっているから)その内容は至極おもしろかった。
武道、日本芸能 能が持つ身体性についていろいろと考えさせられた。
能はゆったりした身体の動きと、さっと身体の向きを変えたりする素早い動きの緩急が存在し、その場に緊張を与える。それは不愉快なものではなく、神聖なものを携えている。心が洗われるというべきか。今まで、能を見たことない私でもひしひしと感じ取れた。
また、武道は(合気を内田先生はやっている)円の動き。それは、決して衝突する力ではなく、うまく身体を流すといった感じがぴったりだろう。水の流れの如く、それを停止させない。まるで、一瞬が悠久の時であるかのように、技をかける。

私は前から身体論と臨床哲学をやっておられる鷲田清一先生から刺激を受けてきた。
まさしく、自己は脳が主ではなく、身体を通すことで発揮されることを考えてきた。いわば、身体なしには物事を考えることもできない。
後輩が、人間は最終的には電脳世界に自在に潜り込めるとはいうものの、身体性が欠如した意識は存在し得ないと私は考えている。だから、このまま身体性を欠いてしまえば、人間は絶滅したと言っても過言ではない。身体が存在してこそ、人間であるからだ。
話が脱線したが、身体が大事で、それでいてそれを忘れることが大事なのだ。
言っている意味がよく分からないかもしれない。
例えば、空気。
普段は、意識しない(忘れる)であるけども、息苦しくなるとそれを意識する。
身体を意識しつつそれを忘れるということは、すごく自然的なことだ。
身体の声を聞き、それを元に思考を挟まないで行動する。
本能ではなく、あるがままの自然を己のうちに持つことになる。
『無為自然』であるとはこういうことだ。

そこで、帰着するのが先程の武道やら能の動き。
これらは最初のうちは苦心しながら型を覚える。それを積み重ねて、己のものにする。つまりは忘れるのだ。
これが失われつつあるのが今の日本だ。
最後に、何百年も未来を見据えるとあった。それを考えるとき、身体を忘れるほど修練することこそが残していくものだろう。漠然とした未来だけども、脈々と受け継がれてきた日本文化の源泉を私は大事にし続けたい。

これまで数々の本読んできた。
小学生の頃だと、『かいけつゾロリ』とか『ズッコケ3人組』とかあったような気もするが、そういうのはあまり読まなかった。
幼稚園の頃からまあガキっぽい本は読んでいる一方で、『少年探偵団』というようなものを読んでいた。
本格的に文学に触れたのは小学校5年生のころか。それでも、外で遊ぶことはしないような内気な少年ではなかった。
親が読書家だったことが影響している。
決定的なことは中学だった。
1つは『何かが道をやってくる』というSF小説。
もう1つは『半分の月がのぼる空』というライトノベル
最後に、『マンハッタンの怪人』
この3冊のおかげで、中学生の頃から読書は欠かせないものになった。
今でもそうだ。理工書を読む傍ら、中国史、文学、哲学など興味のあることを読み進める。
こうして自分が形成される。
読書はしないと世界は開かれないと言っても過言ではない。
また、読書しすぎるのも了見が狭い。
これは今まで生きてきてそう思った。
最近では読書する人は限られている。そのため、国語便覧にあるような人の本まで読まれない。
坪内逍遥から始まり、幸田露伴、夏目漱石、森鴎外、田山花袋、永井荷風、志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介、宮澤賢治、樋口一葉、太宰治、井伏鱒二、小林多喜二など。
そして、最近では小林秀雄ですらも知らない人もいる。
世界の文学を知らない人もいる。
『三銃士』『鉄仮面』『運命』『モヒカン族の最後』『十五少年漂流記』『宝島』『アラビアンナイト』など名前を知っていそうなものですらも読んだことがない。
あくまでも本は趣味だが、最近の小説の面白くないのはこういうところにあるのではないだろうか?
そればかりか、日本の昔話ですらも相手にされなかったりする。
『怪談』を書いた小泉八雲はこういう言葉を残している。
「物質もただひたすらに誤りなく、記憶する。生命を有する物質のどんな単位にも無限の力が潜み眠っている。その理由は、これ以上分割を許さぬどの原子にも、今は消滅した幾億万の宇宙の無限にして不滅の経験が宿っているからである。」
本はまさしくこの言葉通りに今までの人類が得てきたものを脈々と伝えている。それを最近は日常にある幸せともども
忘れ去られているのかもしれない。
「ラッセル様?」
 じっと彼女の顔を眺めていたら、彼女の方から声をかけられた。私は頭を振って、なんでもないことを彼女にしめした。
 植物園は生命が確かに息づいてはいた。しかし、私は奇妙な感覚に囚われていた。それは、生命ではない何かかここにはいるような感覚だった。その感覚をひしひしと身体で感じながら、先に行く彼女の後を追った。
「お父様は、植物の種子は世界中を旅行した先で貰ってきてはくれるけども、あんまり興味はないのですの。そのかわり、その地域に伝わる伝承や、唄といったものはかなり蒐集するみたいですの。ラッセル様は興味がありますか?」
「私は星をやる人間ではありますが、星座の物語にすごく興味があるわけではありません。本はそれなりに嗜みますけども、やはり面白いのは科学です。最近の物理学は進歩が早いですから」
「そうなのですか。家庭教師にいろいろと教えてもらいましたが、それでも閉ざされたところですから、なかなかと世の中のことは届いてきません。できればいろいろと教えてくださいませんか」
 微笑を浮かべながら私に話しかけてくれる彼女の表情に、顔を赤くしながらええかまいませんと答える自分がみっともないとは思った。これまでの人生で、こういう女性からいろいろと話しかけられた経験がないことを羞じた。しかし、そういう感情を差し引いても、彼女ともっと話したいという欲求は沸き上がっていた。
「いまは、電灯というものが大都市では作られているのです。夜でも明るいのですよ」
「それはどういったものなのですか?」
「電気というものを使って、フィラメントという構造のところに負荷をかけて光を発生させるものです」
「そういうところでは星空は見えにくいのではないのですか?」
「ええ、そうです。だから、私たちも電灯がないとところで星を観測しているのです」
「星はこういったもので観測するのですよね?」
 そういって、彼女は身振り手振りで表現しようとする。その様ですら愛くるしい。ラッセルは胸にある種心地よい感情をもちならがら答えた。
「望遠鏡というものです。それで、遠くにある星を見るのです。また、最近では銀をつかった写影機で星の画像を取るのです」
皆川博子の『開かせていただき光栄です』を読んだ。

開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU―開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU―
(2013/02/28)
皆川 博子

商品詳細を見る


80を過ぎても今なお創作活動が止まない作家さんである。
主にミステリーが主体で、ホラーを書いてたりする。
これはつい最近書かれたもの(2012年)である。
時代背景は近代ごろ。真梨幸子の『パリ黙示録』が近いかもしれない。
まだまだ解剖学が不完全で、(そうなると杉田玄白の頃か?)そのために死体を違法に買い取って、人体の不思議を解き明かそうとしているところから始まる。
そのため、表現が気持ち悪いのであまり食事前に見るものではないが、かなりそそられる内容であった。
まず、時系列は謎の死体が発見されてから、それが誰のものでどういう経緯なのかを解き明かすのと、詩人を志して上京(言い方はおかしいけど)してきた少年について2つの視点から物語を書いている。
それで、盲目の探偵役が1つ1つ事実を突き止めようとしていく。
中でも面白いのは幾重にも張り巡らされたウソである。
ウソにつぐウソで、どんでん返しが繰り返される。そして、えっ?と思うような感じで終わる。
久々に面白いものを読ませてもらった。ありがたいことである。

追記
冊数を数えている内は読書家とは言わないのではないのだろうかと最近思う。
これまで読んできた本とかを考えると、何千と読んできたとは思う。
また、繰り返し読んでいるのもあるから何とも言えないけども。
芸能人でも、いろいろともてはやされる人がいたりする。
それは悪くはないけど、最近のメディアは誇張気味だ。
それと、たくさん本を読んだからと言って物書きに向くとは限らない。
森博嗣なんかは確かそうじゃないと思う。
また、やたらと書店で目立つ◯◯推薦という文字。
こういうのを見るとげんなりする。
推薦などされなくても興味があればとことん読むし、最近は根底に潜むテクストが似たような作家が多かったりするから、繰り返しかと思う。
でも、そうでもしないと本が売れないのだろうな。ちょっと残念。

シャーリー・ジャクソンの『丘の屋敷』を読んだ。

丘の屋敷 (創元推理文庫 F シ 5-1)丘の屋敷 (創元推理文庫 F シ 5-1)
(2008/09)
シャーリイ・ジャクスン

商品詳細を見る

かのホラーの名手、キングがべた褒めした作品である。
この小説には禍々しいものはでない。(この前のやつは、禍々しいものの典型ではあったが…)
どちらかと、きらきらしているというのが正しいだろうか?
確かにこの屋敷がすることは、『アミティヴィルの恐怖』よりかは優しい。
そして、大事なことは主人公はエレーナである。
エレーナの心がところどころに入ってくる。
彼女は旅人だった。長らく、母親を世話し、自分を押し殺す放浪の旅だったのだ。
それ故に、安住とは言い難いものだったが、この屋敷にいつしか惹かれていた。
だから、最後にああいうことになってしまった。
想像力があるかないかは、この小説を読めば一目瞭然だ。つまり、この本を真の意味で怖いと思えるなら、それは想像力が豊かなのだ。
私は十分楽しめた。なかなかに面白い幽霊屋敷だ。
ごっつ、きょうてぇ小説だった。

夜啼きの森夜啼きの森
(2001/07/03)
岩井 志麻子

商品詳細を見る


岩井志麻子といえば、岡山弁のおどろおどろしい小説を書くことで有名だ。
その彼女が題材としたのは津山三十人殺し事件。
有名なのは、八つ墓村だろうがあれはちょっと違う。何しろ、内容は凄惨だとしても、要蔵とこの人では全然違う。
さて、この小説はいろいろな視点から辰男についての印象が書かれている。
どれも、気味が悪いという印象なのだが(1人は違う)、どこかしら惹き付けるものがあるという風に思っている人もいる。
この閉鎖的な村の因習が忌まわしいというものもあり、それが禍々しいく表現されている。
狂気を孕むというのはどういうことなのかをこれで表現しているというのだろう。

私はこの人の作品には慣れているけども、ホラー慣れしていない人にはキツいだろう。

もう1つは三津田信三の

山魔の如き嗤うもの (講談社文庫)山魔の如き嗤うもの (講談社文庫)
(2011/05/13)
三津田 信三

商品詳細を見る

相変わらずいい表紙ですな。(どこがやねん)
いつものごとく刀城先生が事件に巻き込まれるやつですね。
後味の悪さもさることながら、忌み山というもの取り扱っているのでなかなかに面白い。
大概の人は霊験新たかな山でぱわーすぽっとで充電だとか言うものですが、昔の山はそういうものではなかった。
山は神聖なものであると同時に忌むものがあった。
それはやはり、自然の中にいながらその恐ろしさを知っていたからでしょう。
私も一度だけ山の中に迷いましたけども、そのときに音がしなくなったときの恐怖は忘れられません。
山は恐れるものなのです。それは最近は道が舗装されたりしているので実感しませんが。
ほんわかテレビといい、NHKといいどういう神経しているのだろうか?
テレビの内容はよくよく吟味しなければいけない。
まあ、芸人の下劣なネタばかりのやつが好きな人ならば、そういう人だけ見ればいいが、普遍的な内容を扱うところでどうしてそういうことをするのだろうか?
最近のテレビの傾向として、むちゃなことをやっているものもある。
エンターテインメントの追求だと言えば聞こえはいいかもしれないが、やはりやりすぎは見る側としてもひく。
何事もやり過ぎというのはいいことを生まない。
中にはそうではないという人がいるかもしれないが、職人というのはやりすぎにはならない。それはなぜかというと、心のスイッチを切って行っいるから、無駄な思考がない。
やりすぎをしているときは、大概は雑念にとらわれる。
話が逸れた。
日本としての傾向は集中することにあるが、そこから俯瞰することはやはり忘れないで欲しいな。

演習大学院入試問題 物理学〈1〉演習大学院入試問題 物理学〈1〉
(2000/03)
姫野 俊一

商品詳細を見る


大学院の問題を使いながら力学の復習をしてます。
本当は原島さんの演習書でやった方がいいとは思うのですけどね。
それにしても、例題とかで使われている問題の大半は東大だとは…
あまりにも恣意的。何かあるのかしら?

今日やった問題はコリオリの力を考えた、自由落下の問題。
解き方がめちゃくちゃだし、オイラー角の考え方が最悪。本当にこれでいいのか?
そのくせ、解答はなぜか合う。

これは本当にゼミ用だな…
量子化という手続きは物理学でも大事だ。
これはなにかというと、表現の仕方という言い方が適切だろう。
時々言っている第二量子化とは、生成・消滅演算子を用いて一意的に表現するやりかたで、その形から煩雑さは抜け落ち、計算がやりやすくなる。
一方直感的な表現は第一量子化ではある。

量子力学は一般の人が理解するのには奇妙な分野だと思う。
とくに、数学ぎらいの人からすれば、普通の力学的感覚で物事を理解することができないと言われたら困惑するだろう。
あと、ヒッグス粒子はつぶつぶだと思っているかもしれないが、そうじゃないんだよといっても信じないだろう。

科学は理解しようという気概のある人だけにその姿を見せる。
アマノウズメのように踊らなければ天照は出てこないのと同じように…
どうして僕らは存在するのか

銀河の中心の 円盤から遠く離れたところに

さまざまな星があるようだけども みんなだいたい同じくらい

年を取ってるおじいちゃん 

僕らの距離は近いから ときどき衝突することもあるけれど

ちゃんと仲直りはするんだよ

私の色は赤い色 あの子の色も赤い色

みんな個性はあるようだけど 見かけは全部おなじかな

もうすぐ私の寿命もつきそう 水素を燃やしてヘリウムもつかってきたけど

そろそろそれも限界かな 残念ながらCNOサイクルはできないな

次の星のために私は爆発しようかな それとも小さく収縮しようか

未来へ繋ぐ物質の受け渡し 次の命の源に 私の身体使ってください

見えない力に引っ張られ 再び生命が芽吹きだす

そんな未来を想像することも 球状星団ではできること だってまだまだ私のことを

ちゃんと分かっていないのじゃない?
世間は、いろいろなことが起こっている。
安倍首相のやっていることにしても、橋下が主張してきたことも、言葉ではあたかも日本のためだと言っているようだが、その実そうなるとは限らない確率が高い。
そうとはいえ、シリア攻撃を英国政府がやめたことは影響があったことではある。
それとイランの経済制裁問題。
世界のことはめまぐるしい。
モンサント社の種子に関してもそうだし、宇宙開発のこともなかなかに問題がある。
原子力はその最たるものでもある。アメリカが、その福島の状態をどうにかしようかと言ったみたいだが、原発事故の大半はアメリカで起こっていることから、果たして任せていいものか?
日本だと楽天社長が訴訟すると言った薬品のインターネット販売。
TPPもそうだけども、食品の表示偽装やら、山本太郎議員の行ったこと。
みのもんたの降板やら。

こういった報道は偏向的な報道をしているところがやっていることを考えると、様々な情報を集めなければいけないなとは思う。
しかし、グローバル化というのがもはや当たり前だという価値観に凝り固まったこの世界において、真のことを探すのはむつかしい。集団が、そういう思考に陥るとどうにもしがたい。
どうして、この日本語というものを大事にしないのか?
英語がいろいろなところで使われているが、英語もその表現の仕方に問題はある。
こうした世の中の流れを見ていると、人間は自然と関わることをやめたのだなと感じる。
なんとも寂しい感じがして、将来はどうなるのかは心配。
まあ、佐保理流だから、そこまでは心配はしないのだけどもね…
クラシックは何が面白いか?
演奏者と指揮者、それだけで大いに表現の仕方が違うから印象が大きく変わる。
以前、カラヤンは全体的にゆっくりな印象だったと言った覚えがある。(いつだったか思い出せないが)
最近、ペルルミュテール以外が弾いた『水の戯れ』を聴いた。
アルゲリッチという世界を代表するピアニストと、ピアノの女王であるラローチャとこの3つを聴き比べてみた。
まー、アルゲリッチ姐さんはすごいことすごいこと。
優雅なイメージを持つ曲が劇的に変わり、これってホンマに『水の戯れ』ですか?
そうだとしたら、なんとも急流滑りな感じだなという印象を受けます。
ラローチャは奥ゆかしさを持ったというのか。まあ、言葉には言い表せないです。
他にもジュリーニのオーケストラ版『恋は魔術師』は全然ラローチャのピアノとは違いますね。

いやはや面白い。

ファリャ:「恋は魔術師」ファリャ:「恋は魔術師」
(2005/11/23)
ジュリーニ(カルロ・マリア)、アンヘレス(ヴィクトリア・デ・ロス) 他

商品詳細を見る
ホラー映画の先駆けとも言える。
そういう作品はこれだろう。

アミティヴィルの恐怖―全米を震撼させた悪魔の家 ドキュメントアミティヴィルの恐怖―全米を震撼させた悪魔の家 ドキュメント
(1978/10)
ジェイ・アンソン

商品詳細を見る

残念なことに、あまりに古いのと再版されることがないため、京都全域では借りれる図書館がないみたいだし、大阪でも1つだけしかない。
まあ、それでもアマゾンではあるのだが…

内容はドキュメンタリー
恐怖の一ヶ月を描いている。そこに住んでいた人も、祓いをおこなった人も両方呪われた。
アメリカというと悪魔だと考えがちだが、私は日本人ならではの土地に潜む穢れの類いだと思う。
それこそ、何百年と積もり積もったものが、そこから溢れ出している。
しかし、その穢れは伝染しない。
ただ場を形成しているのだろうか?
それにしても、ノンフィクションだとあるからこそ今はどういうことになっているのかはすごく気になるところではあるな。
今日もヘイトデモがあったそうですけども、ひまなのですかね。
よくわかりません。
そもそも、人を貶めたところでなにになるのでしょうか?
大事なことは、自分をあるがままに受け入れることじゃないでしょうか?

という問題提起をしておきつつ、今日のやったことは相対性理論を使った変分法による電磁気の解法。
第二量子化。
なかなかに面白い事柄を堪能しました。
明日から授業。
わかるって面白い。
道において、欲やら執着は物事を見るのを鈍らせる。
儒教は、物事を見るのを鈍らせるときに正常な考えを持つためにある。
日本は儒教が根付いている。
それゆえに、死の弔い方には先祖を祀るというものがある。
墓は先祖を思い出させるものだ。しかし、そういう風に人を弔うことによって大切なものを守ろうとする。
道はそういうことを考えない。それこそ、執着を嫌うからだ。
だから、死んだときは笑って歌って欲しい。
悲しみに囚われては欲しくはなかったりする。
プロフィール

水妖の音楽

Author:水妖の音楽
京都大好き大学生。
2009年 天文学会参加
2013年 サマーチャレンジ  
2015年 夏の学校
現在天文学を勉強中の大学院生
主にあわぎゃらくしーをやっていますが、銀河とつけばなんでも面白がります。
思想の根本は荘子であるため誰かしらに与することはしません。
身体論、哲学の類いの話も好きです。
趣味は読書とクラシックと絵画をみること山登り。
籘真千歳先生のファンです。
SFが特に好きです。森見登美彦さんも好きでサイン本を持つほど。ライトノベルは半分の月がのぼる空。ホラーなら玩具修理者。
クラシックはアリシア・デ・ラローチャやバーンスタイン、佐渡裕、カツァリス等が好み。
絵はマグリットやら、ルドン、川瀬巴水、ドミニク・アングル

最新記事
最新コメント
Twitter
ゆるりと呟きます。呟くまえに喋ってしまいますが… 気になった方はフォローしてくれるとありがたいですが、人次第でブロックするかもしれません。そのときはごめんなさい。
月別アーカイブ
カテゴリ
バナー
初音ミク-Project DIVA-F 2nd
閃の軌跡
要予約
最新トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。