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ひさびさに文の更新があったが、今度はゆるゆると理系の話でも。
といっても、特別面白い話があるわけではない。
これを書いている段階でも、何を書こうか全然考えていないのだから。
空はなぜ青いかという話で盛り上がっていたからちょっと考えてみよう。
端的にこれを言ってしまうと、レイリー散乱だと言えてしまう。
レイリー散乱とは何か?
空気分子による光波の散乱のことなのだが、青い光と赤い光では、その散乱確率に差が生じるから空が青くなるというものだ。とはいえ、すべてがそうだとは思えない。
という話だ。
実際のところはどうなのだろうか?
私たちは光によって色を識別する。
光の三原色と、色の三原色では異なるのはわかるだろう。色はあくまでも光を反射したものであるからだ。緑色が見えるということは緑以外の光は吸収する。
しかし、空の青さとは訳が違う。
光が直接なのだが、確かにどういうことなのだろうか?
夕焼けのことは散乱で説明できそうであるが、大気は薄い。
といってもこれは宇宙スケールでみたらである。こういうことを確かに立ち止まって疑問に思うことが科学だろう。

さてさて、こういう本を読み始めました。

Galactic Dynamics (Princeton Series in Astrophysics)Galactic Dynamics (Princeton Series in Astrophysics)
(1988/01/01)
James Binney、Scott Tremaine 他

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銀河物理の本なのですけど、買った本で一番厚い。
英語だから大変ですし、そもそも大学院生向けですけど、こういうの読んでいかないことには銀河できないですからね…
頑張ります。
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「写真というものですか…」
 彼女はいかにも興味があるかのような声色で、そう呟いた。
「私の大事な研究道具でもあるので、よかったら見せてあげましょう」
「本当ですか。ありがとうございます。私、すっごくうれしいです」
 そういう彼女の横顔を見るのが私はうれしかった。そこで、足早に今日私が泊まる部屋まで彼女に連れて行かれる羽目になった。

「これがそれです」
 私は持ってきた機材の中から一枚の写真を取り出して、彼女に渡した。
「どういう風に見るのですか?」
「これは…。ここに三つの星が見えるだろう」
「ええ」
「これは冬の有名な星座、オリオンの三ツ星だよ。ちょうど、これは冬の大三角形を撮ったものだね」
 そういうと、彼女は両の手でじっと見つめた。その間に私は写真を撮る道具を取り出しにかかった。こういう物珍しいものを撮って渡してあげると、彼女も素直に喜ぶのではないかと考えたからだ。てきぱきと、写真を撮れる準備を進めている間も、彼女はずっと写真を見ていた。
「写真。撮ってみますか?」
 私は彼女に声をかけた。
「素晴らしいものです。こうやって、記憶を大事に保存できるようになるのですね」
 そういって、彼女はずっと眺めていた写真を私の方へ渡した。私はそれを受け取りながら言った。
「そちらの椅子に腰掛けてください。この写影機は、すぐさま写真をとれますから」
 そういうと、彼女は優雅に椅子に腰掛けた。その立ち振る舞いは、さすがは良家のお嬢様という感じであった。
「それじゃあ、撮ります。いい顔でお願いします」
 私は彼女にうまくピントを当ててシャッターを切った。
「出来上がるまでちょっと、待っていてください。」
 そういって、私は現像するべく準備を始めた。
「それじゃあ、できたら見せてくださいね」
 彼女は私の部屋から出て行った。すごくいい花の香りが残っている。
 
 数時間後、私は写真をみて愕然とした。彼女が、写真に写っていなかったのである。これはどういうことなのだろうか…
三津田信三『禍家』を読んだ。
本当は昨日だったのだけど、昨日から頭痛が酷くてパソコンを立ち上げるのもおっくうだったので今日に至る。
ホラー要素を持ちつつ、内容はミステリーというのが題材。
奇妙な森が近くにある家に越して来た少年はデジャヴに襲われる。
そして、幼い頃からみ続けた夢が暗示するものとは?
おじいさんが言った言葉の意味とは?

まあ、平易なものですね。特別すごく面白いというわけではないです。(島田さんを想像してはいけません)
これより、前に紹介した方のどろどろがいいかもしれません。
八幡の藪知らずとかすごく面白いですしね。


禍家 (光文社文庫)禍家 (光文社文庫)
(2007/07)
三津田 信三

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村上春樹の『アフターダーク』を読んだ。
人物にその時代のイメージをパッケージしているといえばいいのだろう。
しかし、至極退屈なものであった。
世の中の人はこういうのが好きだという人が多いとはいう。実際、高校のころの国語の教師とかも村上春樹は面白いと絶賛していた。
確かに、この時代の闇とも思えるようなことを浮き彫りにするようにはしていたが、そういう読み方は面倒である。なんと言ったらいいのだろう。女優である姉を持つ妹と、むかし知り合った男を軸に、さまざまな人物の描写。純文学とはこれだと言われたらはぁと納得しないといけないけど、いろんな意味で凝り過ぎていると思う。
自分自身どう評価したらいいのか分からない。ただ、これだけは言える。決して好きではないという。
淡々と社会の一面を投影するように描くが、ただ描いただけとも言える。社会をただ俯瞰し、仔細を語る。
私の中でもまとまらない。ホラーではないことだけは断言出来る。それは、今まで数々のホラーを読んできた経験から言えるだけだが。

純文学はずいぶん前に読むのをやめている。というのも、芥川賞とかの作品を読んである時期から面白くないと思ったからだ。遠藤周作とかはちらちらと読んでいたりしたものだが、全体的に暗い。いくら芸術性を高めたといえども、人間辛気くさいものばかり読むのも疲れる。ということで、SFやホラーといったものに興味が移った。ときどき思い出したかのように平野啓一郎とかを読んだりはするけど、敬遠するようになった。確かに、今の社会を描いていると思う。それは面白いのかもしれない。でも、描くだけだ。技巧を凝らし、社会を描き出すけどそれだけだ。私にはそれが面白くないと思う。どんな形であれ、どういう風に働きかけるかというのを私は期待する。自分ならこうしたいというものがあって、問題についていろいろと議論できる。いや、結論をつけるということが良くないことだというのを知っているからわざわざ結論を書かないのかもしれない。

もしかすると、私自身は世俗に本当は興味がないのかもしれない。純文学はそれこそ社会に繋がっている。リンクしている。ところが、私の思想は厭世思想で、とかく社会とは切り離される。そのため想像力が飛翔するSFやホラーといった類いに魅力を感じるのだろう。そして、今の社会は有、優、勇、友、憂と言ったものを良しとする。そして、影なるものは見なかった。その影に焦点を当てたという感じなのかもしれないが、私の感覚としてそれは知っているというものだからかもしれない。新鮮さがないのだ。だから、その文章がもつ意味は分かっても退屈なのだ。既に知っていることを繰り返し繰り返しはなされているのと同じだから。

やはり、村上春樹はわからない。純文学はわからない。

アフターダークアフターダーク
(2004/09/07)
村上 春樹

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この本は湯川秀樹の誕生してから、中間子論を発表するころまでの人生を振り返っている。

はじめにが一番印象的だったので、ここに引用する。

 昨年(昭和三十二年)の一月、私は満五十歳の誕生日を迎えた。つまりその日までに、私はちょうど半世紀を生きて来たことになる。
 私の歩いて来た道は、普通の意味ではけわしくはなかった。学者の家に生まれ、後には、それぞれ違った方面の学者となった兄弟たちと、一しょに育ってゆく過程において、また自由主義な色彩の濃い学校生活において、世俗的な苦労は少なかった。環境的には、むしろ恵まれていたといった方がいいかもしれない。
 しかし、「学問の道では」と聞かれると、簡単には答えられない。好運だったとも思えるが、人一倍、苦労したことも否定出来ない。何しろ原子物理学といえば、二十世紀に入ってから急速に進歩した学問である。その上げ潮の中で、自分の好きなことを自分の好きな流儀で、やって来ただけだともいえよう。ただ、私は学者として生きている限り、見知らぬ土地の遍歴者であり、荒野の開拓者でありたいという希望は、昔も今も持っている。
 一度開拓された土地が、しばらくは豊かな収穫をもたらすにしても、やがてまた見棄てられてしまうこともないではない。今日の真理が、明日否定されるかも知れない。それだからこそ、私どもは、明日進むべき道をさがし出すために、時々、昨日まで歩いてきたあとを、ふり返って見ることも必要なのである。
 上に述べた二つの道はしかし、実は重なっている。私が学究者として成長して来た道は、同時に、人間として歩いて来た道でもある。
 二十年近くの間、私は随筆の形で、簡略にではあるが、自分の過去について何度か語った。そしてまた、私以外の多くの人の手によっても、私のことがいろいろと書かれて来た。私の評伝といったものも、五指に余る。世間は私という人間について、一応のイメージを作り上げてしまった。そのイメージが、どこまで正しいか。一つの判定資料を提供したいと思うのである。
 ある人が、鏡に向かって自分の顔を見る。それは他人が見たその人の顔でもある。ところが、自分が他人の目には見えない自分の本質について語る時、聞き手は意外な顔をするかもしれない。主観と客観の一致は、この場合むつかしいのである。ことに私は生まれつき、自己を表現することに困難を感じる人間である。それにまた自意識過剰な人間でもある。自分を客観的に見ようと努めながら、自分でそれを裏切ることになるかもしれない。
 とにかく、何が生まれて来るか、私にもはっきりとは分からない、五十歳を迎えるころに、そこはかとなく芽生えた希望を、たまたま朝日新聞が満たしてくれることになった。以来一か年、私は余暇をさいて、準備をつづけた。そうこうする中に、五十一歳の誕生日も過ぎた。
 私は私の近親の人たちに迷惑を及ぼさない限り、彼らのことも一しょに書くつもりである。学校の先生や友だちも登場するであろう。この回想の大部分は湯川秀樹自伝というよりは、小川秀樹とその周辺ということになるだろう。「小川」は、私の生家の姓である。
 さて、小川秀樹は明治四十年(一九〇七年)当時の東京麻布区市兵衛町に生まれた。歳ごとに紅梅の美しくにおう家であった。


序文からその面白さが味わえると思う。
ここに書かれている言葉は現代でも容易に当てはめて考えることができる。
そこは指摘しないが、よく考えて欲しい。
また、湯川秀樹がなぜ数学ではなく、物理に行ってしまったのかが分かる。それは、昨今話題にあがっていたかけ算の順序とも一致する。私は、そのことに共感したので、かけ算に順序を設ける(ベクトルとかテンソルとかは順序がちゃんと決められている)ことにはナンセンスだと思っている人ではある。

旅人  ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫)旅人 ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫)
(2011/01/25)
湯川 秀樹

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蝉  李商隱
本以高難飽
徒労恨費聲
五更疎欲斷
一樹碧無情
薄宦梗猶汎
故園蕪已平
煩君最相警
我亦舉家清


意味 
蝉はもともと高潔な生き物で風を食べ、露を飲むばかり。
しかし、その蝉の鳴き声は腹をすかせて恨んでいるのではないだろうか?
自分も薄宦に沈倫して、貧しく、いくら不平を述べても、上層の人は取り合わない。
ふるさとを出て久しいし、いつまでも境涯に漂白しているのだろう。
せめてお前を見習って、私も清貧に甘んじているより仕方がない。


中国の国力が落ちないのはこうしたエリート育成のおかげである。しかし、これは多くの不幸が積み上げられている。
出世できなければ生きていくこともままならない。杜甫は自分のその素直さ故に、天子の怒りをかった。学問ができるといっても、不遇な扱いをうけたりする。それを考えると今はまだマシではないだろうか?
昨日研究発表があった。
修士のひとは2年間の集大成をここでぶつける。
そして、研究室配属される人はこれを見て4回生の卒業研究をどこでするのかを考える指標となる。
午前は数学だった。
最初はシミュレーションの研究室。経済社会や、ウイルスが侵入したの対処をアルゴリズムを組んでやってみる。
シミュレーションはある意味で創造だが、善し悪しを決めるのは現実のモデルをよく考えたかになる。
正直なところ、モデルを考えるときにいろいろな先行研究もあるのだが、それが果たして良い関数なのかは判別がついていないと思われる。そうなると、いくらシミュレーションしても意味がないものをやっている可能性がある。
慎重に考えなくてはいけない。

次は統計であったが私自身はよくわからなかった。他にも関数解析とかがあったのだが、何ぶん不勉強なもので…
午後からは物理で、超伝導や、物質の内部を想像する理論とかであった。
ここは、やはり丁寧に説明されていて非常にわかりやすかった。
途中で偏頭痛が酷くなったので途中で帰ったが、それでも収穫はあった。

どの研究にしても、それを発表するときはおもしろいと思わせないといけない。正直卒業研究のほうも見たが、私はこれが面白いんだー。君もそう思わないかい?という風なものがなかったと思える。科学はとくにすぐさま役に立つわけではなく、技術に応用されてこそである。そうなると科学の意義は面白さにあるとおもう。
私はそれを追求できるようにしたい。
瀬名秀明の『月と太陽』を読んだ。
話としては結構難解だと思う。最初は『ホリディズ』
セスナにのって旅行をしようとしている作家とそのアシスタントをする人との、どこかむずかゆい話。(悪い意味ではなくて)
次は『真夜中の通過』
人工衛星を打ち上げて、その夢をいろいろと繋いでいく話。
『未来からの声』タイムマシンの話だけども、主人公はじつはあるものを抱えている。それが何かは読まないとわからない。
『絆』
シャムの双子を知っているだろうか?奇跡に近い確率で現われる。しかし、奇形としてもそれが果たして悪いことなのだろうか?そういうことを問いかける話。
『瞬きよりも速く』
ブラッドベリにも同名の小説があるが、これはサイコパスが絡んでくる。結構斬新なアイディアで面白かった。


月と太陽月と太陽
(2013/10/29)
瀬名 秀明、中島 梨絵 他

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野崎まど『know』を読み終えた。
ここ最近は唐詩を読みつつ他のことをしていたけども、この詩を読むだけでも一苦労だからなかなかとブログを更新できなかった。勉強のことを話してもいいのだが、そっちもそっちで大変なためあまり書けない。
まあ近況はいいとして、読み終えた小説の話だ。
裏には『超情報対策として、人造の脳葉<電子葉>の移植が義務化された2081年の日本・京都。情報庁で働く官僚の御野・連レルは、情報素子のコードの中に恩師であり現在は行方不明の研究者、道終・常イチが残した暗号を発見する。その”啓示”に誘われた先で待っていたのは、ひとりの少女だった。道終の真意もわからぬまま、御野は「すべてを知る」ため彼女と行動をともにする。それは世界が変わる4日間の始まりだったー』
とある。
表紙はシライシユウコさん。
舞台設定について書くと、なんやプレデター作品の最初を描いた『プロメテウス』に近い。
それで、イメージがつきにくいが、どんな物体にも情報素子なるもの(といっても都会を抜けると全然違う)によって情報をアクセスできる。ユビキタス社会という理解でいいかもしれないが、それよりもさらに進んでいるといえるだろう。
また、電子葉は人間の情報収集をよりスマートに行えるものだと思えばいいかもしれない。
主人公は道終をまるで神のように讃え、それゆえに先生が失踪したあとは目標をもって生きてきたが、その目標も達せられた今となっては無気力な状態になっている。そうした中、道終が失踪するまで研究していたところの会社の社長が御野のところに来るところから物語は加速する。
話題になるのは、全知だ。
全知全能の神というように、全てを知るということを理想として科学をやっている人もいる。
全てを知るということは、人間がこれまで思考してきたとある命題にも解を与えることである。
それは『死』とはなんなのか?

これ以上書くと面白くないのでやめておく。
まあ、個人的には非常に興味がそそられた。あえて求めるなら、この小説で出てくるあるものに対してもう少し説明が欲しかったものだが、まあ仕方がない。
それにしても全知ですか…
全てを知り尽くすとはどういう感覚なのでしょうかね?知らないことがあるからこそ、人間の根源的な知的欲求が満たされるのに、あるいみ全知はこれ以上ないというほど奇跡の美しい風景を見て、この先にはこれ以上美しいものはないですといわれてるわけだからな。それはある意味永生と同じく苦しみにならないのか?いや、こういう考え方が全知に及ばないのかもしれない。
いろいろと考えさせられるSFでした。非常に満足です。

know (ハヤカワ文庫JA)know (ハヤカワ文庫JA)
(2013/07/24)
野崎まど

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ようやく読み終わった。
二人の教養レベルがすごすぎて理解するのに必死でしたわ。
この本は5つの章に分かれていて、
1、現代科学の性格と状況
2、科学における認識と方法
3、科学と価値体系
4、科学とヒューマニズム
5、科学の未来
という風になっている。

まず、現代科学の持っているものは何か?
それは人間からの離脱だということから始まる。ニュートンから、物理学はより抽象的な話となりやがて話を拡張させていくことで発展してきた。そして、非人間的なものになってきているという。
また、物理学とも近いということで情報の話になる。この情報をどのようの取り扱っていくべきかという話をするが、散逸的な話で、非常に内容がつかみにくい。
とかくこの情報というものを使って、さらにイメージをつかめるようなことにしていくべきだという話をしている。
これもとらえどころがないが、私流に考えた内容は、抽象的になっているものを身近なものとして理解するために情報というツールを使ってみてはどうだろうかという話だろう。

次に科学の認識ということで、複数の事例から法則性を見つけ出すことをやってきたが、一回きりのことに対して、科学はどういう風にするべきかという話をする。そこで、『納得』というもので理解するというやり方もあるのではという話になる。そこから、美的なものでだったりと話があっちこっちいく。そして、論理もいいけどイメージというものを大事じゃないかという話になる。この章は内容は分かっても理解しづらい。

科学は特定の価値からはなれてきた。では、これからはどうしたらいいのだろうかという話になっている。二人としては科学に全くの目的も価値もないままというのはいかんのではないかという話だ。
また、科学は無駄をしていくべきだという話にもなる。

科学は人間的なものを抜きにしている。しかし、これからはそれいいのかという話にもなる。
それは科学がそれだけではすまないことも出てきたからでもある。例えば複雑系。非常にきっちりしてきたけども、曖昧さを許容しつつやらないといけないのではということにもなる。

そして科学の未来という風に話が持っていかれるのだが、ここは読んでもらった方が早い。
最後まで読んだけども、難しい。これは改めて読み直ししなければいけないものだと思う。久々にこう雲をつかむような気分を味わった。
疲れたので、唐詩とか読んでリラックスしようと思います。
この2人の対談本を現在読んでいる。内容がすごく難しいが、それなりの読み応えだ。
この2人の年は10以上離れているから、すごく奇妙だが、梅棹は若いとはいえすごく冴えている。
そして、このころの湯川さんは再び荘子というか厭世的な姿勢を持ちつつ物理学をやっておられるころ。
彼らの話している問題はいまでも取り上げることで、全然進歩していないなと思う。
とにかく、読み進めていきたい。

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)
(2012/01/06)
湯川 秀樹、梅棹 忠夫 他

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月下独酌  李白
 
花間一壷酒
独酌無相親
挙杯邀明月
對影成三人
月既不解飲
影徒随我身
暫伴月將影
行楽須及春
我歌月徘徊
我舞影零亂
醒時同交歡
酔後各分散
永結無情遊
相期遥雲漢


すごくいい詩ですね。
1人酒の楽しみ方とでもいうのでしょうか?
1人酒のときは、私は竹林の合間に見える月を眺めながら飲むというイメージか、河に映った月を見ながら飲むというものを想像する。
それでいて、1人というのはものすごく孤独だ。
その心情を表現していて、私はすごく好きだ。

中国の不思議な物語を集めたもので、作家の貴志祐介がエッセイにて好きだったという小説。
多いのが狐で、その次にこの世のものではないもの。
幽冥録とは趣が似ている。

私としては、こういう話は大好きだ。
人の土踏まずに穴をあけ、血や魂を啜り食らうもの。
間違えて地獄に連れて行かれたために、鬼仙となった人。
狐と結婚したものなど。
創作意欲がわくというのも頷ける、密度の濃い物語であった。

聊斎志異〈上〉 (岩波文庫)聊斎志異〈上〉 (岩波文庫)
(1997/01/16)
蒲 松齢

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聊斎志異〈下〉 (岩波文庫)聊斎志異〈下〉 (岩波文庫)
(1997/02/17)
蒲 松齢

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鷲田清一の『パラレルな知性』を読んだ。
ほんまに好きですね。鷲田先生。
それだけ臨床哲学というのは魅力的だとは思うし、また素朴なところがいい。
これは私の感想なので、いやそれはちがうやろっという人がいてもおかしくはないですけど…
とかく、話題は多方面に及ぶ。
大事にしなければいけないことは、聴くことだという先生の意見にはそうだねって同意する。それはやはり、言葉は人間関係を構築するものであり、一方的な交通ではないということを薄々と感じていたからであろう。
だから、できればいろいろと自分はこう思うよっていってくれた方が楽しかったりはする。
中には激しい言葉で糾弾したり、罵倒、非難などがあるだろうし、好意的な意見もある。
ひどい言葉というのは、やはりその人を表す。意見は押し付けるのではなくて、提示する。
聞く側もそれを丁寧に受け取って、受け取りましたよっていうことを伝える。
本来の交流はそういうものであった。時には鋭いことばで相手を傷つけることはあっても、それは相手を思ってのことだったり、素直な感情の爆発でもあった。
しかし、最近では自分の言葉を書きなぐり、荒んでいるとは思う。

私としてはただこういうことを書いたけども、私がそう思うだけでみなさんはどう?っといえばいいだけなのだ。
白黒つけるのではなく、両方のバランスをとることも大事だ。

そういうことをちょっと考えたりした。
私はこの本を読んで思ったことを書いてみた。
あなたはどう思う?

パラレルな知性 (犀の教室)パラレルな知性 (犀の教室)
(2013/10/05)
鷲田清一

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 昨今、エネルギーのことが話題になる。たびたび書く、福島の原子力発電のこともそうだったり、太陽光発電とかそういうものもだ。それについて、すこし考えてみようと思う。
 まず、エネルギーにとはなんだろうか?『スーパー大辞林』を引いてみると、①力。力を出すもと。精力。活動力。②物理量の一。物体や物体系が持っている仕事をする能力の総称。力学的仕事を基準とし、これと同等と考えられるもの、あるいは換算できるもの。力学的エネルギー、熱エネルギー、電磁場のエネルギー、質量エネルギーが代表的なもの。③動力資源。とある。①なんかは、明らかに人間を意識したものだ。②と③は結びつきがある。ところで、最初のエネルギーはどれにあたるのだろうか?
 もちろん、これは②にあたる。今や、人間の生活には電気はなくてはならない。このパソコンだってそうだ。電気を消費してこうやって活動している。電気というものはすごく便利な形のエネルギーだ。それはこの場合ハイエネルギーといえる。対照的に使いにくいエネルギーというのが熱エネルギーだ。この熱というものは物理学を履修したことがある人ならだいたいどういうものかは説明できる。熱は物体、原子や分子といわれるものが運動しているものをマクロな視点で観察したものだ。つまり、温度が高い、熱を持っているというのは原子が激しく動き回っている、振動しているということを意味する。あくまで簡単な説明だが、世の中物理をやっている人ばかりではないからこういう説明になる。
 ところで、エネルギーという言葉を使ってきたが、このエネルギーというものはどういったものなのかという説明をできる人はいるだろうか?物理にもエントロピーというものが定義されているが、これについてちゃんと説明できる人はいるだろうか?エネルギーとは、まさしく③のやつで、目には見えないものである。エネルギーはこの人間が目には見えない動力資源を、あたかも目で認識しているように感じているものだ。言葉で定義することで、わかるようになったものだ。だから、世界中どこを探してみても、ほら、これがエネルギーだよって見せることはできない。まず、こういうことだっていうのを知ってほしい。
 話を戻そう。いま現在電気をつくる、エネルギーを作るには水蒸気を作ってタービンをまわすことによってエネルギーを得ている。つまりは、自転車のライトと同じことである。火力、水力、風力、原子力。ただし、太陽光発電だけは別で、あれの説明をすると大変だから割愛する。磁石とか磁力のあるものを回転させると、物質内にある電子に作用し、それで電気が起こる。金属とかの物質には電子が存在していて、それがある方向に向かって動けばそれが電気となる。科学をやればそこらへんの詳しいことは話せるが、私自身それをやっていてもそれをうまく話せる自信がない。本来なら、専門家とかプロという意識のある人がちゃんと知らない人に大して啓蒙する必要があるのだと思うのだが…いかんせん、仕方がない。お忙しいのだろう。
 ここまで、基礎的な話をしてきた。ここで社会と関わらせて話をしてみよう。電力によって人々の生活は便利になった。それは言い換えると、スピード感があるということだ。そして、それがなくてはならないものになっている。しかし、人間が使えるエネルギーというものはそこまで大量生産されるものではないということを忘れていた。つまり、無尽蔵にあると思っていたのだ。しかし、石油には埋蔵量というものがあり、原子力にしてもそうであることはちょっと調べれば分かる。とはいえ、今すぐに枯渇するわけではない。ここで問題になってくるのは、今だけを見据えた消費社会というものはいかなるものかということだ。
 昔は先祖から譲り受けたものを、未来へ託すというものが意識としてあった。現代はそういうものが古くさいもので、なにより『自由』を尊ぶ。自由な経済、自由な教育、自由な仕事。200年前なら考えられないほど自由である。エネルギー革命とかはそれに一躍かったといっても差し支えないと私は思っている。ところが、これが極大にすすんだ世界、いわゆるグローバル化社会というものはどういうものか?それは、私はすべてを消費尽くすまで止まれない電車だと思っている。エネルギーを考えるとき、そういうものが今ではちらつく。
 私が問題にしたいことは、未来の人たちに残すということだ。原子力発電は科学の予防原則から、脱原発の方がいいという考えがある。(詳しくは今回は関係ないので議論しない)それ以外にしても、今よりも消費を減らすべきではある。そうなったとき、私は仕方がないといいつつも、消費を減らすことに従うつまりではある。多少の不便は仕方がない。何より便利になれすぎた。
 それ以上に困ることは技術の発展である。情報化社会とエネルギーは切っても切れない。それは、ユビキタスなるものを作り上げたときに電気をどれだけ消費するのかを想像すると恐ろしいことだからだ。いろいろなものが小型化しているが、言い換えると消費する電気は増える。精密になればなるほど、小型化し、そのぶんたくさんそれを搭載できるので、消費電気×個数で増えていく。最高峰のスーパーコンピュータが出す熱は想像以上だ。そのために冷やす空調も馬鹿にはできない。
 ここいらでエネルギーを考えないといけないというのはここにある。つまり、エネルギー争奪の可能性がなくはないのだ。杞憂なら私も安心だ。こういう予想は外れるに限る。エネルギーと将来、これを脱原発共々考えなくてはいけないと私は思っている。今回はこれを締めくくりにしたい。
とある本に触発されて、一つ書いてみようかと思う。
私の考える『よい社会』とはなにか?



 まず、よい社会とはなにかということを考える前に、はっきりしなければいけないことを考える。それは、誰にとってよい社会かである。もちろん、ほかにも考え方の切り口は存在するだろう。しかし、今回はそれにしぼって考えていきたい。この、誰を問わなければいけない理由は、例えば私にとって『よい社会』とすると、私ではない人にとって『よい社会』でなくていいことになる。また、あなたという書き方にしても同じである。しかし、これは社会と呼べるのか?私にしても、あなたにしてもどちらとも、社会にとってはマイノリティである。マイノリティなものが社会と呼べるのか?はなはだ疑問である。もちろん、SF小説ではそういうのも題材にできるが、考えなくてはいけないのは現在の私たちの社会におけるものだ。だから、これは私たちにとってよい世界だ。彼らでもなく、あなたたちではなく、私たちなのだ。そうすることで、私を中心に据えて社会を考えられる。私というものがなくては、そもそも社会を考えることはできない。だが、私とか僕、俺とうものは区別しない。一人称でみた社会を考える。
 それでは『よい社会』について考えてみよう。いろんな物事を考えるとき、具体的な事案から考える要素還元的な手法とかも使えるが、ここは一つ全体から考えてみよう。あまりに巨大すぎると困るけど、それでも全体を俯瞰することができなければ、専門的なことを行っていても、自分の知らないことは素人だと居直ってしまい、その結果社会というものから外れたものになる。だから、全体をみてみよう。
 社会というものは、人間と人間の関わりが基本原理だ。古来から、物々交換によって交流したり、大きな獲物を捕ったりとコミュニケーションをしながら生きてきた。社会に関わるというより、私の周りにいう人がお互いに作用し合い、その作用をマクロでみたものが社会だ。だから、一人が死んだとしても社会が滅びないことは誰でも直感的に分かる。社会を滅ぼすということは、人間を一人にするすればいいことだ。一人だと誰とも関われない。もしくは、複数人いてもその人と一生関われないようなほど人がいなくなればいいだけだ。
 話が別の方に脱線しそうだったから戻そう。人間同士の関わりが基本だと書いた。ではどういう関わり方がよいのだろうか?例えば依存。寄生。これはある種人間の関わりの一つだ。これはよいのだろうか?私は違うという。寄生や依存は、依存したい人が大丈夫であればいいが、もしも倒れたときには、依存していた人は共倒れになる。関係性がここで二つとも消えてしまうことになる。また、依存されていた人は自分だけでなく他人まで負担することになるのだから、社会を見たとき理不尽だと感じる。仮に、そういう人が大半だということにしよう。そうなると、よい社会とは呼べなくはないだろうか?
だから、依存、寄生はあまりいい方法ではない。人間はとかく怠惰なこころを持っており、一度依存すると味をしめてなかなかに立ち直ることはない。厳しい言い方をすると穀潰しだ。よい社会をつくるにはこの依存、寄生を減らすようにしなければいけないことが分かる。
 ほかに、厭世というものもある。極端に疎になる人間関係の形だ。これはどうだろうか?これもはっきり言ってよくない。仙人とかはまさしくそれなのだが、人間でないもののやり方だ。もちろん、自給自足していて一人で生きることもできなくはない。しかし、それは想像以上の困難だ。できる人はまさしく皆無に等しいからこそ、仙人だとかいわれる。つまり、そもそも人のやることではないのだ。そうなると、これはそもそも除外してもかまわない。
 極めて特殊なものをみたが、それでは専門家と一般人を考えてみよう。専門家は、ある分野では誰よりも深い知識を持っている。一般の人にはそれが理解することはできない。だが、科学の例をあげてみても、今の人はこの専門家だけが分かる知識を利用したものを利用している。例えば、携帯電話、原子力発電所、航空機など。ここで両者が築き上げる関係とはなにか?まず、科学者は一般の人に分かりやすくその知識を教えるということが原則で、どうしても説明不可なものをを予防原則を第一にすることだ。また、どんな科学技術が優れていても、それを利用するのは社会であるということを常々意識することだ。常々意識するだけでない、その科学や技術がもたらすメリット、デメリットを分かっている範囲で伝え、分からないことは分からないということだ。これが専門家に課せられた義務で、よい社会をつくる上で不可欠だ。一方一般の人も、専門家にお任せしてはいけない。専門家だって人なのだ。自分も間違えることを考えると、専門家だって間違えて当然だ。だから、分かる範囲でいいから自ら関わっていき、考えるという姿勢がいる。これが、相互に関わることだ。福島のことでもそうだが、一般の人は専門家に依存してきていないと胸を張っていえますか?専門家は、自分は積極的に一般の人に関わってきましたか?
 先ほどにもあった通り、依存は『よい社会』を作らない。また、依存とは逆に排斥もおなじことがいえる。『よい社会』とは何か?それは、依存でも排斥でもなく、より活動的に周りと交流を持つことである。もちろん、これからストレスを感じてしまったり、あるいは耐えきれなくなって自殺、あるいは殺人という形がでることもある。ここについて改めて議論すると難しい。なぜなら人の心はブラックボックスだ。量子力学をやっている私からすると、すべてを統一するのは遥かに困難なことだというのが分かる。超伝導みたいに、みんな同じ方向を向くとか。だから、どうしても社会には揺らぎが存在する。でも、少なくとも交流を持つことは大事だ。交流とは話すことではなくて、聞くこともまた大事なのである。話せばいくらかすっきりするし、ただ聞くだけでも励みになる。現代は聞くということがなくなっているのではないだろうか?じっと相手の言葉を受け止め、相手に受け止めたよというシグナルと出す。それだけでも、十分なぐらいだ。だから、私の考える『よい社会』とは、お互いが話し合い、その話を受け止めあうこと。専門家だとか一般だとか関係なくである。
上田早夕里の新刊を読み終えた。
これは『華竜の宮』の続編だ。
主人公は3人いるが、ある意味で青澄の人生だった。
彼の信念というものが、強烈に突きつけられて、こっちまで飲み込まれそうだった。
読み応えは抜群。それも、生半可なものではなかった。
前のものもすごかったが、これも海と陸の視点、さらには宇宙というものを描ききり、真の意味でSFというものの無限の可能性というものを考えさせられた。
この作者はすばらしいと思う。

これ以上は言葉が思い浮かばない。
人間の人生とはかくも美しきものであるし、醜悪だし、そして尊敬に値するものなのか…


深紅の碑文 (上) (ハヤカワSFシリーズJコレクション)深紅の碑文 (上) (ハヤカワSFシリーズJコレクション)
(2013/12/19)
上田 早夕里

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深紅の碑文 (下) (ハヤカワSFシリーズJコレクション)深紅の碑文 (下) (ハヤカワSFシリーズJコレクション)
(2013/12/19)
上田 早夕里

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おひさしぶりです。
本当なら頻繁に更新するつもりだったのですが、残念なことに私のPCちゃんは修理に出しました。
無線が使えないのでね…

試験は終えましたから、あとは残っている授業をやって終わりです。
とはいえ、忙しい人だからゼミできるかな?
集中講義という形になるか。
そして、卒論と修論発表をみることになっています。
とはいえそれだけでは駄目なので、院試のことを考えてTOEICを受ける準備をしなければ…
春休みはやることが多いな。

まずは、暇なときにでも院試の問題をコピーしなくては。
プロフィール

水妖の音楽

Author:水妖の音楽
京都大好き大学生。
2009年 天文学会参加
2013年 サマーチャレンジ  
2015年 夏の学校
現在天文学を勉強中の大学院生
主にあわぎゃらくしーをやっていますが、銀河とつけばなんでも面白がります。
思想の根本は荘子であるため誰かしらに与することはしません。
身体論、哲学の類いの話も好きです。
趣味は読書とクラシックと絵画をみること山登り。
籘真千歳先生のファンです。
SFが特に好きです。森見登美彦さんも好きでサイン本を持つほど。ライトノベルは半分の月がのぼる空。ホラーなら玩具修理者。
クラシックはアリシア・デ・ラローチャやバーンスタイン、佐渡裕、カツァリス等が好み。
絵はマグリットやら、ルドン、川瀬巴水、ドミニク・アングル

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