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今教育に携わったり、それに興味ある人らが話している内容が今度の入試改革である。
この改革で根幹というのが、創造ということ。
創造…新しいものを初めてつくり出すこと。
言い換えると独創性を試すということでしょうか。
今までの点数重視の試験を廃止して、そっち方面を重視することと「大学入学希望者学力評価テスト」を年複数回実施し、各大学の個別入試も筆記の点数だけではなく、面接や小論文、集団討論などを活用して選抜することを意識するようになっています。
それに対して異を唱える人らが、そういう問題を論じていますが私としてそちらに与することもないです。
それよりかは、エッセイ的に思考を散逸させて教育ー教え育てることとは何なのかを書いていこうと思います。
今までも散々書いてきましたが、年末ということでまとめるという形でやろうと思います。

学問というのが始まったのはいつでしょうか?
こういうとき、文字ができない限りはよくわかりません。(もちろん、文字がなくとも絵をみることでわかることはありますが、要するに媒体とするものが残らないと分かりません)
文字は甲骨文字や象形文字などができ、それぞれのところで発展していきました。
そして、何かにそれを書き記すことで現代までそれを知ることができました。
紙ができたのはだいぶ後で、紙ができてから本というものが誕生しました。
中国では荘子、老子、孔子、墨子、孫子、韓非子などが、ヨーロッパではアリストテレス、プラトン、アルキメデスなどから古代の叡智を窺い知ることができます。
とはいえ、学問というものが役に立つかというと、すべてがそうではありませんでしたし、生きるためにやらなければいけないことがあったので、みんなが教育を受けていたかというとそうではありません。
日本でも農耕している人らは毎日の暮らしが忙しく、とても勉強をしている余裕はありません。

そこから、学問は一時的になりを潜めます。大きく変化したのは間違いなく天動説から地動説に変わった前後でしょう。
ニュートンが万有引力を示し、デカルトが哲学と数学について説き、それからドルトンの原子など大きく学問が成長していきました。
そして、日本では寺子屋だったり他にはギムナジウムのような教育機関ができるようになりました。(もちろん、まだ全員が教育を受けられるわけではないですが…)
そして、義務教育がほとんど完遂されたのがだいたい1915年ごろ。
ともするとおおよそ100年前の話になるわけです。
そして、今ではどこの国でも教育は根幹であるという認識があります。(日本の場合その意識が高いようでそうではないようですが…)

ここまで歴史をざっとみました。
とはいえ、教え育てることは何も言っていません。
そこで、ここから考えていこうと思います。

今の時代は端末があり、電波があればたいていのことを調べることができます。(情報化社会)
とはいえ、その調べられるないようというのは人間社会全体が経験してきたこと、考えたことになります。
学問は、その人間社会に対して考えたものを供給するものになります。
そこには人間の思考の産物があり、玉石混淆です。
大半が玉ではない、いいかえるとムダなものであります。
ここで、ムダが駄目かというとそうではありません。
玉がどれかわからないため、それを磨いてみることが必要です。
磨いて初めて何かに役に立つかわかるかもしれないですし、そうでないかもしれないのです。
教育とは、まさしくこのムダだとか、磨く作業を黙々と続けられる精神を養うことです。
これは、この間読んだ鷲田清一(大谷大学教授)『哲学の使い方』を引用すると、
「答えがまだ出ていないという無呼吸の状態にできるだけ長く持ち堪えるような知的耐性を身につける」
という風に言えます。(もちろん、これは哲学の話でしたが拡張して考えることができます)
とはいえ、磨くための精神を養うにはどうしたらいいのでしょうか?
それこそ、今回の大学入試改革にも繋がる話です。

中教審(中央教育審議会)はそれこそ創造性だと考えたわけです。
いままでの詰め込み教育、ゆとり教育を変えなければいけないという想いからでしょう。(どういう思惑かしりませんが)
とはいえ、新しく提案した内容はなにより変わっているようで変化はしていないのです。
ただ、逆に新しく試験を変えたことにより、財力がある家の子の方が対応が早くできるというのはあります。(ここらへん、社会派だと自称する人の中にはお金じゃないのよという人もいますが、私は言い切ることはできないと思います。何より、決めつけて物言いは視野狭窄を生み出しますから)

私は今は教育過剰がなによりこの状況を生み出していると思っています。
教育は大事ですが、今は異様なまでに入れ込みます。
し物理をやっている人からして物事は準静的にしか動きませんという認識はあります。
だから教育もじっくりゆっくりとことを変化させる。
急激な変化は混乱を生み、結局収束させることに労力を割きます。
そして、何よりも人が人を教えるということを見つめ直すべきです。

河合隼雄先生をよく思わない人も多いですけど、教師をしていた先生は魅力的だと思います。
まさしく教化する。教師の役割はそれでしょう。
教えたりすることではなく、生徒と教師という身分的な関係ではなく、人としての関係を築けた。
そこに教え育てる根幹を成すものがあると信じて疑いません。


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今週から忙しくなる。家のこと研究のこと。
ということであまり更新していなかったら死にかけているものだと思ってください。
年末までガンバリマス。
本日社会勉強ということで、合コンに行きました。
まあ、年上の人とお話できたことは単純に楽しかったです。
なんというか、私自身恋愛という方向に結びつかないですね。
ちょっと談笑するような。
だから、せわしない感じがして物足りなさはあります。
もうちょっと話していたかったという感じですね。
基本的に話すことは好きなので、いろいろと社会のこと、いまどういうことしてたりという単純な興味はあります。
ともあれ、こういうのは何回も行くものではありませんね。
ワインとか飲みながらですけど、必ずしもワインが美味しいとは限らない。
そうなると、その時は楽しいですけど後でしんどいですね。

なかなか楽しい経験でした。
哲…賢い。物事の筋道が通っていること。もしくは、賢い人。道理をわきまえている人。
学…まなぶこと。まなんだこと。まなぶ場所。まなびや。

哲学とは、どういったものだろうか?
もうおなじみの鷲田清一の比較的新しい新書『哲学の使い方』の冒頭にこんなことが書いてあった。

”哲学は、人間の本質について深く疑問に思った時や、そのことによって悩んだり傷ついたりした時に、それを解決する手がかりをつかむための1つの手段なのではないか、と思いました。”

そこからこの本の主題である哲学の使い方は何かというのを鷲田先生は話を展開するのだが、それは割愛しよう。

今の時代は激動といっても差し支えない。
何が激動か?
情報がまず一昔前に比べて莫大に増えた。そのため、中東で起こった事件をが即座にニュースとして流れるし、自分の位置がすぐさま分かる。知らない場所のストリートビューなるものも見れる。

それから、教師と家庭というものも変わった。
教育は、いまやグローバルという旗を大きく振りかざしている。
企業も同じ。競争こそが大事だと言う認識になっている。

あげくには介護する人が増える。
政府の国債は増えるばかりである。
農業に関してはF1種子が蔓延っている。

そんな時代である。
当然昔と違ってというが、人間の人生というものには常に答えようのないものが付きまとう。それは変わらない。
でも、社会が変貌しており、早急に答えを出すことを求められている。(クイズ番組もしかり、受験のセンター試験もそうだ)

だが、そうはいっても簡単には結論づけられない問題はある。
それを具体的に言えというのは難しいが、あえて例を挙げるならば、どうして人はこの宇宙に生まれ、生き、そして死ぬのかだろうか?

私自身それはなんども考えたし、その都度答えも変わっている。
哲学は、それこそ答えが1つに定まらないことに対して耐性をつけることだ。
私はそう考えている。
この一年いろいろとあった。
ゴーストライターの件も、今日一段落したSTAP細胞の件もそうだ。
ああいう事柄にしても、私たちはどう対処すべきかというのを考えなくてはいけない。
それは、何も1つの答えを鵜呑みにすることではない。
たとえば、O氏が可愛いからSTAP細胞はあるからというのを間に受けたり、むしろ女性だからというので擁護したりということではないし、また頭ごなしに否定することではない。
ようは、早々に頭の中で筋道、仮説を立てるのをやめることだ。
人間、なにかとこうだと思い込むと楽だし、ときには暴力的に都合よく持っていくことができる。
だがしかし、それは私は違うと思うのだ。


哲学は、思考に大きな幅に持たせることだ。
思考に幅を持たせることで、見えてなかったものが見える。
そうなると、何が素晴らしいかというとさらなる思考の飛躍に繋がり、それがずっと続く。
想像の翼をはためかせてどこまでもいける。
そして、それはイカロスのように落ちることはない。
それこそ、究極の知であり、荘子のいうところにちかい。
私はそれこそ人が目指すべきところだと信じている。


哲学の使い方 (岩波新書)哲学の使い方 (岩波新書)
(2014/09/20)
鷲田 清一

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ここのところ忙しくて帰ると大概寝てしまって更新できていない。
なら研究室でやればいいのだが、ちょうどいろいろとプログラムを書いている最中で忙しい。
だから、ツイッターでもあまり呟けていない。(あまり呟くと、後輩からうるさいと言われるのだが…)
ともあれ、選挙だ。
自民党は勢いに乗っているらしいが、数で言うならばそんなに変化していない。
そして、本当に中身が何もない選挙であった。
沖縄は実情を反映し、大阪は維新の影響が薄れたことを示した。
海江田さんは仕方がないね。あんなことやってたらしゃあない。
ただ、結果どうであれ自民党は勢いづくことは間違いない。
問題はだ、選挙に行かなかった人はそれだけ自分の首を絞めているだけになる。
というより、日本人の気質から言ってこういう民主というやり方は駄目なのかもしれない。
となると、誰かリーダーになれる人だろうがそんな人がいればこんなことにはなっていない。
つまりリーダー不在だ。
私の考え方はあるものを使うしかないということである。
無い物ねだりしても仕方がない。
また、そんな簡単には世の中変わらないが、ずっと続けない限り悪くなるということだ。
教育改革にしても結果は20年とかそういうことになる。
ともすると、何もしないよりかは何かした方がいい。

ただ、何かしてもよくなるとは限らない。それは確かである。
そして、相互的に補えるように余力を残せるようにしなくてはいけない。
それは、教える側でも教わる側でもそうだ。
いまは教える側が一方的に負担を強いられる。
そうなると、教師は魅力的なものではい。
政治も同じで、補い合わないといけない。
ただ、今の政治家にはそれができるのだろうか?
自分の身が一番ではあるが、それは他人に対してどういう態度を取れるかも関係する。
ただ、今は韓国とかの問題にしてもやたらと双方が攻撃的だ。
それは、自分の身を大切にしていない。
私がどこに入れたとかは言わないですけど、今回の選挙で大した意味はないですね。
せいぜい、汚職議員が残念なことになっただけで前回とそれほど変わらないですし、(状況が)投票率は下がったので、要するに仕事していないことが明らかになったというだけですな。
私はそんなことには興味はないですけど、それでも主権者としての役割は果たしました。
私の意志をちゃんと書いてきたわけです。
それでも投票にいかない人は多かった。
ある意味あきらめなのかもしれませんが、逆に都合のいいようにされても文句は言わないという意思表示にとられかないですね。
民主主義という話でしたけども、それもあくまで仮説。
ならば、固定観念とか決め付けとか考えないで自分で思考すべきでしょう。
そうでないならば、もはや人ではないですな。
思考してこそ人間。
久々にあった後輩にブログで○○をしていないですねと言われたが、とてもじゃないがそんなことをやっている余裕はない。
といいつつ、更新はちゃんとやっているのは一応これは日記の体であるあるからだ。
さてさて、明日は久々に家族とお出かけだ。
といっても映画を見にいくとかそんなのではない。
家族は芸術に明るいので、そういう類いのものだ。
というわけで私の心はウキウキだ。
しかし、もうすぐ忙しくなるのは目に見えている。
どうしてこんなに忙しいのかね…(大半は自業自得)
ここのところあまり書く時間がないのと、まだ心の整理がつかない。
昔、祖母が亡くなったときは人の死のあっけなさに驚いた。
あまりいい人ではなかったが、それでも死んだという知らせを来たときは涙した。
また、大学受験していたときにも親しい同級生の早すぎる死の知らせが来たときにも愕然とした。
どうしてという感じだった。
それでもまた、身近な人がなくなった。
そして、それは私に多大な影響を与えた。
どうも、こういう時は厭世的になって叶わない。
私は自慢じゃないが、一途に人を想い続ける。
それゆえ、合コンとか婚活というのが嫌である。
というより、恋愛に関してはプラトニックがいいと思うぐらいなので、がつがつしていない。
合コンするくらいならば、結婚を考えない方がいいと思うぐらいだ。
だから、いまクリスマスということでとある筋から誘われているが、嫌だなって思う。
私は趣味があう人と付き合いたい。
その方がいいし何より、末永くというならばそうでないと辛い。
結婚は生活だしな。
今日はオフ。
朝から溜まっているものを消化し、お昼は自分でご飯を作って、外にっては晩酌用のビールを買い、院試のまとめを作成し、のんびりしてた。
いやー、実に有意義な休暇だった。
何かに追われることも大事だが、羽を休めることは大事。
オンオフの切り替えができることが真の成熟した大人だと思う。
今日は楽しめました。
このごろDr.の人もですけど、忙しいしか言ってない気がする。
なにせ、学会のいろんな〆切があるし、これから卒業に当たって忙しくなるからだ。
もちろん、私も日々研究をしているが、それ以外にも人を教えるということもしているから大変だ。
それは研究会でもアルバイトとかでもだが、人に分からせるというのはすごく頭を使うことで、できる子ならば意図を掴んでくれるが、そうでない子は掘り下げないと駄目だ。
とすると、私がどれほど理解しているのか、言語化できているのかということになる。
ただ、数学とかにしてもいちいち言語化するとプロセスとして遅くなるものもあるから、なかなかと分かってもらうのは難しい。
学会でもそうで、やはりどういう風に分かってもらうのか?知識を分かち合うのかということに焦点がある。
そうすると、やはり教えるということは気を遣うことなのだなって思う。
この間とあるところでこういう話をしたが、今日の主旨は違う。
天文というものがどうしてあるのかということだ。
他の生物は星を観察しないし、星座を作らない。
人間が星が必要になったのはまさしく、耕作とかの関係、または祭事に関係することだ。
ある意味生活するのに必須になったわけだ。
星をその人の死に関連させることもあったわけだ。
しかしながら、どうしてこうも人間は夜空の星に魅入るのだろうか?
美しさ?
広大さ?
言葉にすることのできないものがここにはあると私は信じている。
どうしてという問いに答えることは今はできない。
それは、私自身なぜ天文をやりたいのかというものを言語として持っていないからだ。
あるのが当たり前だったし、迷いもなかった。
天文という世界は私の中ではそれは空気のように当たり前だったからだ。
そして、それは今後とも自問し続けることだろう。
なぜ、人は天文を始めたのか?
その理由が見つかればいいな。
プロフィール

水妖の音楽

Author:水妖の音楽
京都大好き大学生。
2009年 天文学会参加
2013年 サマーチャレンジ  
2015年 夏の学校
現在天文学を勉強中の大学院生
主にあわぎゃらくしーをやっていますが、銀河とつけばなんでも面白がります。
思想の根本は荘子であるため誰かしらに与することはしません。
身体論、哲学の類いの話も好きです。
趣味は読書とクラシックと絵画をみること山登り。
籘真千歳先生のファンです。
SFが特に好きです。森見登美彦さんも好きでサイン本を持つほど。ライトノベルは半分の月がのぼる空。ホラーなら玩具修理者。
クラシックはアリシア・デ・ラローチャやバーンスタイン、佐渡裕、カツァリス等が好み。
絵はマグリットやら、ルドン、川瀬巴水、ドミニク・アングル

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